いつのまにか、外は白々と明けていた。
おれは「朝立ち」を感じて目が覚めた。
夜気が残って、アルプスに来ているんだと改めて感じた。
いつ戻ったのか、左隣りに杉本さんの背中が見える。
「あああ」根岸さんが右隣りで腕をだして伸びをした。
「起きてよ」続けて、根岸さんに呼びかけられた。
「おはようございます」「おはよぉ」おれらは半身を起こして応えた。
おれは、昨夜のこともありバツが悪かった。
杉本さんにどういう顔をしていればいいのか悩んだ。
「ほら、起きよう」先に言葉をかけてくれたのは杉本さんのほうだった。
根岸さんはもうシュラフから出て立ち上がって、ひんやりした外へ出て行ってしまった。
「ぐっすり寝られたでしょう?」「うん」
二人っきりになったので、おれらは秘密の会話を交わした。
「すぐに帰ってこなかったじゃないですか」「そんなことないわ」「根岸さんに気づかれてるかも」「かもね」
おれたちは、靴下を履いたり、歯磨きをリュックから取り出したりしながら、そんなことを話していた。
外に出ると、山の絶景が大パノラマとなって目の前に広がっていた。
槍ヶ岳が小さなとんがり帽子を朝日を受けて輝いていた。
そして眼前の大天井岳(おてんしょうだけ)に目を向けると、逆光で立ちはだかるようにその山体を聳えさせている。
「今日は、これを征服するのよ、それから、あの常念岳に向かいます」
根岸さんがヒュッテの手洗いで顔を洗って戻ってきたところらしい。
常念岳はいかにも高山という感じの岩のピークが朝日に輝いている。
「菅野君、元気出た?」「あ、はぁ」「ほら、早く顔を洗ってらっしゃい」
根岸さんはそのままホエーブスを出してきて朝食の準備にかかった。
よそのテントからも、三々五々人々が出てくる。

朝は干しブドウの入ったテーブルロールを一人一袋を食べた。コッヘルのやかんで沸したお湯でインスタントコーヒーや紅茶など好きなものを作って飲んだ。
根岸さんがコッヘルのフライパンでSPAMを焼いてくれた。
これがまたうまいのだ。

大天井岳は、実は次に向かう常念岳(じょうねんだけ)よりも高く、2900メートル以上あるらしい。
足場は悪く、岩がちでハイマツが苔のように文字通り這うように岩の間を覆う。
もうすでに空気が薄く、息が上がる。
「けっこうきついでしょう?」杉本さんが、おれをいたわってくれる。
「息が苦しくって」
「あたしもよ。これだけは仕方ないわ」
また、黙々と地面を見ながら歩みを進める。
運が良ければ夏羽のライチョウが見られるはずとのことだった。
レンズ付きフィルム「写ルンです」で撮ってやろうと、ジャケットのポケットに忍ばせている。
リュックにはジーンズのズボンをぶら下げて、歩きながら干しているといういで立ちだった。

すぐに大天井岳のピークにさしかかった。
意外とあっけなく到達した。
大天荘の位置がすでに大天井岳のピークの真下だったのだ。
振り返るとスタートのテントサイトがすぐ下に見える。
「ここから、少し下って東天井岳と横通岳を経て常念岳に登るの」
根岸さんが地図を広げて説明してくれた。
常念岳の登りはかなりのガレだから覚悟してくれとも言われた。
「ま、今日のスタートは実際、ここ、大天井岳からね」 
いままでは準備運動に過ぎないのだった。

ここからの尾根筋は、おもて銀座の中の「銀座」で、アップダウンや背の低い木々の茂み、岩場など、バラエティーに富んだ山行になる。
「ほら、足元をよくみて」「靴、痛くない?」「そこで休憩にしようね」と杉本さんが、なにくれとなくおれを気遣ってくれる。
やっぱり、昨晩のことがあったからだろうか?
おれも杉本さんに甘えているところがあった。
姉の早苗とは七歳離れていて、杉本さんと重ねてしまうことがある。
姉はいつも、幼かったおれを母親の代わりによく面倒をみてくれた。
母親は、共働きで縫製の会社に勤めていたから家のことは姉がほぼやっていた。
小学生のころまで姉が、おれをお風呂に入れてくれたり、学校への持ち物の段取りなどもやってくれていた。
そうしていまは嫁いでしまった姉が、杉本礼子に姿を変えておれの前に現れたかのような錯覚をした。
高山病でぼうっとしているのと、大天荘で仕入れた飲料水が尽きかけていて、のどが渇いていることもあった。
「水が飲みたい」
東天井岳のピークで足が攣(つ)った。
杉本さんが、献身的に足をさすってくれる。
「お水、飲んでる?」「もうないんです」「わかった。あたしのあげるから」
そう言って、自分のリュックから水のペットボトルを出してくれた。
「だめですよ。杉本さんの分がなくなっちゃう」「いいから」
おれは、少しずつ味わうように、口の中にぬるい水を回しながら飲んだ。
「レイコさん、ありがとう」
「名前で呼んでくれるんだ…君の名は?」
「けいた」「じゃ、けいちゃん」
おれは、杉本さんに笑顔で返した。姉もおれをそう呼んでいたからだ。
横通岳(よことおしだけ)を左に見て、その下を通過するルートを取った。
もうおれの足がやばいので、根岸さんが横通岳をパスすることにしたのだった。
途中、常念小屋で休憩を取り、水を補充した。
「けいた、よくがんばってるよ」「なんなの?レイコ、菅野君を呼び捨て?」「いいじゃん。べつに」
杉本さんが、ムッとした顔で靴の紐を結びなおしている。
おれとレイコさんの距離は今日の一日ですごく近くなった。
根岸さんは、なんだかツンとしているように思えた。気のせいだろうか?
「さ、常念岳に行くわよ」「はい」
おれは、息を吹き返し、ふたたび立ち上がった。

やっとだどりついた常念岳の頂上には行者が建てたのか小さな祠(ほこら)があった。
そこに根岸さんは手を合わせていた。
他の登山客も、祠を背に写真を撮ったりしている。
「近代登山以前はね、ここは信仰の山だったのよ」
戻ってきた根岸さんが話してくれた。

ここから蝶ヶ岳までが、また苦しい道のりだった。
途中、最低鞍部という下りを抜け、また蝶槍(ちょうやり)まで登っていく尾根筋である。
常念岳から400メートル近く下がってきた。
蝶ヶ岳の手前に、とがったピークがあって、それが蝶槍なのだが、おれはこれが蝶ヶ岳だと勘違いしてがっかりした。
でもそこで、ライチョウの親子を奇跡的に見ることができた。
ウズラのようなずんぐりしたライチョウの親鳥が、雛を4羽ひきつれてハイマツの陰をちょこちょこと歩いていたのだ。
「ライチョウだよ」おれが、レイコさんに教えた。
「わっ。やった、見つけたね」
根岸さんも振り向いて、「ほんとだ、よかった見られて」と喜んだ。

「けいちゃん、ゆっくりでいいよ」
「先に行って、レイコさん」
足がまた攣った。
「置いていけないでしょ。いっしょに行こう」
根岸さんは少し先に行って待っててくれているだろう。
おれは足手まといだなぁと、つくづく思った。

蝶ヶ岳ヒュッテで午後の2時を回ってしまった。
昼飯の時間を大幅にずらしてしまった。
ピークから外れたところで、ブスを使うのが時間がかかるからと、レイコさんが持っている固形燃料で湯を沸かし、チキンラーメンを作ることにした。
そしてサンヨーの缶詰赤飯も温めた。これがまたおいしい。
レイコさんは飲み水以外に、調理用の水タンクを背負っていたのである。
もちろん、根岸さんも持っていた。
おれだけ、500ミリリットルの水しか持っておらず、すぐに尽きてしまったのである。
「よく、こんな重いものを入れてますね」
「水は重くないの」「そんなばかな」「持ってると安心だからね」
気持ちで乗り切るのも登山の心得なのだろう。
「この湯煎の水はね、またポリタンクに戻すのよ」
「へぇ」
小さなジョウゴがタンクに結わえられていて、それで器用に残り湯をタンクに注ぎ入れていた。
赤飯の缶詰を温めたお湯は汚れていないのだった。
水がいかに貴重かを、思い知らされた。

「ここからね、さっき来た道を少し戻ります。途中で分岐点があったでしょう?」
「おれが、足が攣って立ち止ったところだね」
「そうそう、あそこを下の方に下りると、今日の幕営地になる横尾山荘です」
「やっと下山だぁ」おれは、小躍りしたい気分だった。
「喜ぶのはまだ早いよ。けいちゃん」とレイコさん。
「もう下りでしょ」
「下りは、足が笑うのよ」
「わらう?」
「そ」
「じゃ、いこうか。日が落ちるまでに横尾に着きたいからね」
西側には穂高連峰と涸沢、槍ヶ岳、小槍がかなり近くに見える。
その方向に下りていくのだった。
しばらくすると植生限界以下になって、森林に景色が変わった。
鳥のさえずりが聞こえ、薄暗くなる。
「けいちゃん、足、だいじょうぶ?」
「かなり痛いです」
「膝ががくがくするでしょう?」
「そう、膝が折れそう」
「それを笑うっていうの」
根岸さんは、下りほど慎重に足を運べと教えてくれた。
くじきやすいのだ。
リュックの重みが膝に直(じか)にかかるのである。
体がきしむ。
もう、かなり下に下りて来たと見えて、頭痛がはっきりなくなった。
呼吸も楽である。
谷底に向かっているので、日の光が届きにくくなっているから全体に暗い。
「もうすぐ、梓川に達するわよ」
「へえ、そんなに下りて来たんですかね」
「横尾山荘で海抜1500メートルぐらいだからね」
一気に1000m以上も下りるのだった。

横尾に着いた時には夕方の6時を過ぎていた。
山荘で定食を食べて、やっとひと心地ついた。
保存食でない、ちゃんとしたお米を食べられて、おれは涙ぐんだ。
「泣いてるよ、この人」
とは根岸さん。
「がんばったもんねぇ。けいた」
「うん」
それはまるで、姉と弟の姿だった。
「やれやれ…」
というような表情で根岸さんはみそ汁を飲んでいる。
「ビール買って乾杯しようか」
「うん」
三人で600円もする缶ビールを買って、幕営してから、三人で夕日に染まる穂高を見上げ、乾杯した。
「ごくろうさん」「ありがとう」「かんぱーい」
下には梓川が青い水を湛えて流れている。
岩に当たって、水が白く泡立っていた。