「読書の嫌いな人がやりがちなこと」と題して、ある高学歴の人が偉そうなことを書いていた。
言いたいことはわかったのだが、全面的に同意はできない。
つまり「わからない言葉が出てきても、逐一、辞書などを調べながら読まない」ということらしい。
そういう「一旦停止」ばかりしていては、読書が一向に進まないし、嫌になってしまうだろうというのだ。
おそらく、もともと読書が苦手な人は、そういうことが多々あるだろう。
しかし、新しい言葉を覚える機会を与えてくれるのが読書なのである。
知らない単語が出てきて、そのままうっちゃっていく読書では収穫が少ない。
やはりその都度、メモっておいて後で調べるとかでもして必ず辞書などを当たってほしいと私なら思う。
作家や著者がその難しい言葉を選んでいるのには意味があるのである。
その背景を推し量るためにも、疑問に思ったときには調べるべきだ。
読書の遅早(ちそう)を競うのは、本来の読書の意味から外れる。
なんとなれば、人は自分だけでは限りある経験を、本を通じた作家たちの経験で補って、幅広い知見を得るものだからだ。
語彙や表現の豊かさを身に着け、教養を高めるために読書をするのであるから、知らない言葉や地名などが出てきたら即調べるほうが身に着くのである。
そして同じ本を、何度も「玩味」すればおのずとその書物の心がわかるというのは、古来より言われてきたことである。

おそらく、本件のような「いちいち調べず、ざっと大まかな意味を捉える読書」に最適な書物は啓蒙書やハウツーもの、自己啓発書、叢書の類だろう。
小説や文学作品、詩歌などの「味わう」書物には、近道はない。
それよりも、自分に合わないなと思ったらやめる読書を私は推奨したい。
なんでもかんでも「読む」というほうが乱暴な読書であり、やらないほうがましだ。
もちろんその意気込みが動機となるのも読書であるが、万人に勧められる方法ではなかろう。

私は読書が嫌いなら、無理に読まなくてもいいというスタンスだ。
読書は必要な人が、必要な時にやればいいと思っている。
読めないことが、後ろめたいなんてことは思わないようにしてほしい。
読書の押し売りは、いただけないと思う。

好きだから本を読むのである。本をとにかく、たくさん読まねばならない仕事があって、それが苦痛なら(たいてい苦痛だろう)そんな仕事は、さっさと辞めるが良いのである。
活字に飢えている人が、本を漁るのであって、満腹している人に「この本は読まないと恥ですよ」なんて勧めるものじゃなかろう。

読書は趣味であり、盆栽や鉄道が好きな人とまったく同列である。
趣味だから同好の仲間を求めるのは当たり前だろう。
「早く、たくさん読む方法」というのが読書趣味の目的だとしたら、いささか悲しい。
読んだ本(読んでない本も)をコレクションする人はいるかもしれない。
ミニカーや切手を集めている人と変わらないからだ。

時代の選別に生き残った古典を、たくさん読みたいというのなら、私も同意する。
顧みられなくなった奇書を古本屋から発掘する趣味だってある。
だからこそ、話題になっている本屋の本をかたっぱしから読むなんてのは、暴飲暴食に等しいと思うのだ。
消化不良を起こしてしまう「毒書」になるだろう。

いっぽうで、自分の専門に関する本で、知らない単語が出てきたら必ず、わかるまですぐに調べなければ、自分は専門家にはなれないとも思う。その方面で「知らない」は恥だからだ。
それでも「わからない」ということは、その人の能力だろうから、仕方のないことだ。
単語は知っていて、だいたいの説明はできても、自分は、本当は「わかっていない」ということは科学の世界ではよくあることだからだ。
私だって、いつか「わかる」ことを信じて、本を読んでいる。

だから私は読書好きな人に「こんな本を読んだけど、こんなことを感じたよ」としか発信しない。読むかどうかは、受け取った人次第だからだ。

私は「本を読まないと馬鹿になる」とか「本を読むのが遅いのはいけない」という煽りかたが気に入らない。
本など読まなくても、人は生きていける。ただ私は本がないと、この先、生きていくのが難しいと思う人なのだ。
それはミニカーやフィギュアを集めて愛でている人と、ほとんど気持ちが同じであるからだ。