日本人の作家によるハードボイルド小説を手に取ってみた。
谷克二の『狙撃者』(1978年)だ。
狙撃者

角川の『野生時代』という雑誌に連載されていたものらしい。
谷克二は、若いころヨーロッパに暮らしていたそうだ。
早稲田を卒業してすぐにドイツに渡り、フォルクスワーゲン社に入社したという。
そのかたわら、ドイツでは柔道の特技を生かして柔道を教えていたとか…
なかなか破天荒な青春時代を送ってこられたようだ。
そのあとに、ロンドン大に入学して歴史を専攻したとある。
まさに冷戦時代にヨーロッパ各地を旅し、ソ連邦にも足を延ばしたらしい。
経歴を読むと、ハードボイルドな人生を送らないと、こういう小説は書けないなと思った。
外国のハードボイルド作家は従軍の経験がある人がほとんどで、日本人の戦争経験者では、なかなかそういう人は、戦いをテーマとしたエンターテイメントとして語ることができないものなのかもしれない。
谷氏は昭和16年生まれで、戦争の経験は幼時体験でしかないのだろう。
その意味では戦後派なのだった。

『狙撃者』はスペインを舞台にして、ブランコ首相の暗殺(1974年暮れ)から、フランコ政権が倒れるまでの一年(1975年秋)までを描いたものだ。
その中で、同時に中東戦争を絡め、混血の日本人の主人公が、その射撃の腕を買われて、反フランコ派のバスク人過激派組織に雇われ、フランコ総統暗殺を計画するというのが、おおまかの筋である。

日本人の主人公、龍村(たつむら)は、福岡生まれの混血児だった。
米兵と日本人の母親の間に生まれた龍村は、母親にも捨てられ、孤児院で育つ。
そこで牧師夫妻に拾われるが、夫の牧師は女にだらしなく、夫婦はいさかいが絶えなかった。
それでも夫人は龍村を我が子のごとく育て、夫妻が母国イギリスに居を移すにあたって同行し、英国で教育を受ける。

冒頭、ブランコ(フランコの弟)首相が爆殺されるシーンから始まる。
反フランコの過激派の仕業に違いなかった。
スペインが第二次世界大戦でも大戦に参加せず、独自路線を貫いたのは有名である。
ナチスやイタリーのファシスト党からの誘いを断って、武器だけ供給を受けるというような関係をつづけた。
それがフランコのやり方だった。
そうして王権から自身に政権を奪取し「スペインのことはスペインが決めるのだ」と豪語して人心を掌握し、戦後も軍事独裁政権を続けたのである。
その間、スペイン人の何十万人という命が奪われ、バスク地方の人々などは虐待された。
スペイン国内は、フランコ支持派と反フランコ派に二分され、フランコ政権は警察や軍隊をして、反乱分子をことごとくつぶしてきたのだった。
そうであるからこそ、地下組織が虎視眈々とフランコの命を狙っていた。

龍村は、そのころイングランドに住んでいた。
その経緯は複雑で謎に包まれていたが、彼がイングランドは、リーズ市の花屋の家に中国人になりすまして転がり込んで、そのヒスパニックの父娘を手伝いながら生計を立てていた。
つまりは入り婿のように娘と昵懇(じっこん)になり、父親もその仲をいずれ認めるだろうというような幸せな生活を送っていたのである。
父アントニオと娘マリア、そして劉晶林(龍村の中国人としての偽名)の三人がむつまじく暮らしていた。
しかしその安寧の日々は長くは続かない。
ある日、アントニオが集会にでかけると言って、娘の運転で出かけた。
その車が、爆発炎上するのである。
プラスチック爆弾を何者かが仕掛けたらしい。
アントニオが参加していた集会はかつてフランコに反旗を翻して戦った同志たちのものだったという。
マリアの腹には四か月の胎児がいた…劉との間の子供である。
劉、つまり龍村は復讐を誓う。
葬儀の後、一人の男がふらりと花屋にやってきた。
その男はヒホスと名乗った。
「お前の復讐心と狙撃の腕を買いたい」というのだ。
「最愛の伴侶を爆殺したのはフランコ総統の手のものだ」とまで教えてくれたのである。

こうして、龍村はフランコ暗殺にむけて、コルシカで訓練を受けるよう、ヒホスに命じられたのだった。
彼のスイスの銀行口座に振り込まれた数十万ドル(日本円にして数千万円)の大金は、すべて育ての母に行くように、彼は計らっていた。
育ての母親は認知症を患い、イギリスの老人ホームで暮らしているらしい。

龍村が銃を扱えるようになったのは、中東で外人部隊の傭兵として従軍していたからにほかならない。
その経緯も物語の中で語られる。
同時に、1970年代の中東情勢、第四次中東戦争のいきさつが時系列で語られる。
この『狙撃者』の執筆にあたって、谷氏はかなりの参考文献を当たられていることが巻末に示されていた。
したがって、フィクションとはいえ、その背景は事実に基づいている。
アラブ人がパレスチナ人を殺している…
その矛盾に龍村はやりきれなさを感じ、傭兵業から逃亡するのだった。
今は、パレスチナとイスラエル(ユダヤ人)との闘いこそが中東問題だとなっているが、この頃は複雑だった。
中東各国の思惑が交錯し、イスラエルとエジプト、ヨルダン、レバノンそしてサウジとリビアのカダフィが微妙にせめぎあっていた。
国益を担う産油をめぐり、エジプトとイスラエルの間でシナイ半島の領有権がまとまらず戦闘になっていた。
ゴラン高原の穀倉地帯をシリアは第四次中東戦争で失い、サウジアラビアの後ろ盾でサダト大統領が糊口をしのいでいた。
産油国のインフレは、世界に波及した。

日本でもオイルショックで、なぜかトイレットペーパーが品薄になって行列ができるという事件があった。
私も覚えている。
またおなじころ、日本人の赤軍派がヨーロッパで爆破テロを次々に起こしていたことも。

この難局を打開すべくアメリカのキッシンジャー国務長官が中東和平に奔走していたのだった。
まずはエジプトとイスラエルの和平協定にラビン首相とシナイ半島のエジプト返還を約束させたのだった。
このエジプトの対応は隣国リビアのカダフィには「弱腰」と映り、糾弾される。
またキッシンジャーのやり方で中東和平が成立すると、アラファト議長率いるPLOなどが対イスラエルへの戦闘資金が尽きてしまう懸念を抱き、よく思わない。
中東の紛争は当事者が飽き飽きしているにもかかわらず、その戦闘をやめられないジレンマがあった。
それは彼らのそれぞれの思惑通りに、落としどころが見つけられないからにほかならない。
あらゆる戦争においてこのジレンマが存在する。
西洋では十字軍の遠征がそうであったし、日本でも、太平洋戦争の終結の難しさや、日清・日露戦争でも少なからず他国の干渉が及んだ。
また日本国内でも「応仁の乱」と呼ばれる長い戦乱は、後に戦国時代を招く結果になったが、いったい何を争っていたのか、当事者もわからないし、だれが勝って得をしたのかも不明なままだった。

龍村は、日本人の過激派にも狙われていた。
「敵前逃亡した龍村」と同じ日本人の傭兵からも憎まれていたのだ。
なかでも過激派の山崎という男が、コルシカから出た龍村をニースの空港で見かけ、自分の大使館爆破任務をそこそこに龍村への復讐に執念を燃やし、仲間から外れて後を追う。
山崎は復讐の念が収まらず、龍村を必ず殺すと躍起になった。

龍村はスペインで山崎につけられ、狙われるが…

この物語で扱われる銃器が「アーマライトM-16」である。
※『ゴルゴ13』でも東郷が使っている。
この本の表紙を飾っているシルエットがそれである。
また扉の作者近影で作者自身が構えている銃がそうだ。
アメリカの自動小銃(アサルトライフル)で、朝鮮動乱、ベトナム戦争でアメリカ兵が帯びていた小銃である。
この小銃はプラスチック部材を多用し、水に落ちても浮くようになっている。
テロリストや地下組織にも浸透していた銃であり、当然、中東戦争でもアメリカが武器供給していた結果、傭兵やスナイパーにも好まれた。
スナイパーに好まれたのは、M-16の精度だ。
1000m程度、最大3000mの射程でも弾道がてい進(直進)しているため命中精度が高いのである。
使用弾は5.56×45㎜NATO弾で20~30装弾可能、自動小銃だから連射もOKだ。
※20発用マガジンはまっすぐだが、30発用マガジンは弧状に曲がっている。
全長1m弱で、重さが3.5㎏だけれど、分解すればコンパクトに収まり、スナイパーにとっては隠密行動にもってこいだ。


スペインの地図を見ながら読み進めると、『深夜プラス1』ではフランスの地理に詳しくなったが、今度はイベリア半島の地理に詳しくなった。
ハードボイルド小説の効用だ。
しかしスペインという国は複雑な歴史を有する国だ。
かつて大航海時代には地球をポルトガルと二分するような大国だったのに、大英帝国にその無敵艦隊を破られ、勢いを失っていく。
今も昔も王国だそうで、ヨーロッパ諸国と姻戚関係にあったことは世界史で習う。
ただトルコとの関係も深く、オスマン帝国時代にはスペインの一部、アンダルシアはイスラムの支配下にあったとされる。
中東戦争の端緒はオスマン帝国支配からの中東諸国の独立だとも言われる。
パレスチナ問題とは別の問題だということだ。
だから『狙撃者』で主人公の龍村が傭兵時代に、対ユダヤ人ではなく、アラブ人同士で殺し合いをすることに疑問を持ち、それに加担することから逃避したのもうなずけよう。
現在の中東紛争はイスラム教の原理と主義主張の異なる部族間争いに純化してきているのかもしれない。
そこにアメリカとロシアの思惑が絡んで、新たな東西冷戦が勃発しようとしている。

『狙撃者』は非常に緻密な伏線と時代背景を織り交ぜて、創作とは思えない仕上がりになっている。
故内藤陳氏とともに、私もぜひ一読をオススメする。