「困っている人を見たら、あなたは助けるか?」という命題に子供たちがどう答えるか、私は試してみた。(毎日新聞のコラムより)
道徳という、私のあまり好きでない教科にありそうな問いかけである。

常識的な回答は「助けるか、自分の手に負えない場合はさらに助けを呼ぶ」などだろうか?

子供たちは、しばらく考えて「放っておく」、「見て見ないふり」が高学年で多く、「助ける」という中低学年を上回った。
A君(五年生)は「困っているかどうか、本当のところはわからん。大きなお世話になるかもしれへん」と言った。
なるほど、「困っている」という前提条件をまず疑うという、私が日ごろ「疑え」と教えてきた通りの目の付け所だった。
「本当に困っているかどうかって、どうやって判断するんかな」私の方から問いかけた。
「聞いてみる」
「手伝いましょうか?って聞く」
低学年の女の子たちが口々に答える。
「自転車でこけて、怪我しているようやったら、助けるかなぁ」とB君(六年生)。
「車いすで、段差で動けんようになってる人を助けたことあるよ」とはC子さん(六年生)。

困りごとは外観から明らかな場合と、そうでない場合があるということを私はホワイトボードに書いてあげた。
「そんでも、電車でおばあさんに席を譲ろうとしたら『かまへん』て断られたし」とA君。
「そのおばあさんは元気で困ってはれへんかったんやね」
「見た目で判断したらあかんなぁ」
そういうこともあるから、難しいのだった。

「なおぼんせんせ、困ってはる人がいても、どうしてええかわからへんときもあるけど」とD美ちゃん(三年生)が言う。
「そうね、D美ちゃんのように小さい子には助けたくっても、大人の人の力を借りないとできないこともあるよね」私が、彼女の貴重な意見を取り上げた。
私はボードに「助けたい気持ち」「自分の力」と書いた。
「みんな、気持ちはあっても、自分の力が及ばないことがあるということは大事なことよ」
「協力するねん」と、B君がお兄さんらしく落ち着いて答えた。
とうとう、彼らは常識的な考えにたどりついたようだ。

「そうやね。力が及ばない部分は、誰かの協力を得て助けてあげるんやね。すると、みんなは基本的に、困っている人を見たら、助けるというスタンスなんやね」
私は、もう一度、確認のために彼らに尋ねた。
すると、A君がふたたび…
「もしやで、もし、助けることで、自分が危ない目に会うんやったら、おれ、やっぱし助けへん…これって卑怯なんやろか」
「卑怯やと思う」とD美ちゃん。
「おぼれてる人を助けようとして、自分もおぼれて死んでる人いるやん」A君は続けた。
「そんでも、助けなあかん。それで死んだら神様も天国につれていってくれはる」
「そんなもん、死んだら終わりじゃ!」
「こらこら、言い争うんじゃないの。冷静に議論しようね」
私がジャッジに入る。
なかなかいい方向に議論が沸いてきている。
私は、助けることで自己犠牲をどう受け止めるかを彼らに気づかせたかった。
きれいごとでは済まないのがエゴの存在である。
「みんなは、自分が大事だよね。そして、ほかの人も大事だ。このバランスを取ることができるかどうかを考えてほしいのよ」
「余力があれば、助けるけど、こっちに余裕がない時は、ごめんなさいしてもええのとちがう?」と、おとなしいC子さんが、ゆっくりと発言した。
「お金を貸してって言われて、はいそうですかって貸したら、その人のためにならへんて、オカンが言うとった」とは、B君。
彼のお家は、昔ながらのお米屋さんなのだった。
「親切でしたことが、あだになるってことね」私がB君の意見を受ける。
「まあ、そういうことかな」

「人を助けるということは、簡単なことじゃないけれど、その場その場で判断して、とっても急ぐ時は手を差し伸べるか、自分では無理そうなときは誰かに知らせて助けを求めるのがいいわね」
私は、そろそろまとめに入った。
「大事なのは、見捨てないこと。自分ができることを考えること」
と、最後に付け加えて、このブレインストーミングを終えた。