あたしは、インターネットを利用しつつも是としていない。
活字こそ、本当の意味での記録であり、第一資料といえると思っているからだ。

ネット上の情報集めは、お手軽な分、誤謬も含むと感じている。
宮崎駿氏も自分の手足を使って調べないと知識は身につかないとか言うてはった。

あたしのように、無責任な、嘘を平気でブログやホームページに書く者も多かろう。
その点、活字にするには多数の他人が出版までに介在し、その出版社の責任も問われる以上、そう簡単に誤謬や虚構を世に出すことはできない。
「誤り」を認めることはネット社会の場合、いとも簡単であるけれども、活字になったものは、週刊朝日のごとく、出版元の社運まで左右する大事件になりかねない。

九月一日の毎日新聞夕刊に「パラダイムシフト」という表題で対談記事があったので少し紹介したい。
これは、毎月曜日連載ということで、今週は広井良典氏(千葉大教授、科学哲学)と山崎正和氏(評論家、劇作家)の対談だった。
つまり、彼らの対談の中にも「活字文化の危機」に触れられていた。

今が「特に」というわけでもないのだろうが、「文化」や「思想」の転換期にあるというのが「パラダイムシフト」という言葉で象徴されている。
「末法思想」のようなもんだとあたしは思っている。

ネットによる情報化社会が高度に成熟して、今や、ITでできぬものは無いという驕りにも似た状況にある。
ITは、「おごれる平家」になってしまうのではなかろうかと。
確かに、スマホの異常な発達、タブレットの進化はあたしでさえも、「何でもできるなぁ」と思わせるし、ほぼそう思っているのだ。

山崎氏は言う、
「人々はもう活字なしで暮らせると思うような事態になりつつあり、将来的には社会の階層化が起こるのではないかと恐れます」と。
つまり、
「活字によって論理思考になじんだ知的基盤社会を担う一部の人々と、活字を読まない多数の人々に別れていく可能性がある」と。
彼のいう「一部の人々」は、なにも特権ではなく、そのままマイノリティであって、ガラパゴス化して絶滅にまっしぐらなのかもしれないな。

広井氏も、
「情報文明は既に飽和段階、ポスト情報化に入りつつあります。(中略)人々は情報化にマイナス面も感じ始めています」
と指摘する。
その上で、山崎氏は、
「もしパラダイム転換があり得るとしたら、これから先のことかもしれません。70億の人口は地球の生産力に比して多すぎ、ましてや現在のエネルギー消費は持続不可能です。このままで行けば、いずれ何かが起こる。国連など今の世界秩序のあり方も役に立たなくなる可能性があります」
と、戦争への発展をほのめかします。
これまで、何度かの大戦が人口増加による過不足を解決してきたからね。

山崎氏は自著『世界文明史の試み』の中で、想像しうる未来像として「進歩の概念抜きの近代文明社会」を挙げているそうだ。
あたしは読んでないから詳しいことは知らないよ。

「進歩の概念抜き」とは、まあ、よく言われる「右肩上がり」を目指さない、「足る」を知った考え方のことだろう。
しかし、どうしてここに「近代文明」が付随しているのだろうか?
それは、山崎氏が戦時下に幼時を過ごした際に、日本のムラ社会、隣組による監視社会が権力や因習の末端となったからだという思いがあるからではなかろうか。
氏の言う「付き合いを押し付けられる」社会は近代とは言えないということなのだろう。
これからは「社交的」で出入り自由な社会が求められ、そのことを「近代文明」と言っているのかもしれない。

しかし、戦争によらずに、この「飽和状態」を解消する方法はないものなのか?
ツィッターやフェイスブックが戦争を起こしかねない状況にあるし、現状の「累卵」の危うさは否めない。
LINEは容易に犯罪と結びつき、かつてないまでに未成年者を犯罪に巻き込んでいる。

あたしは、だから、ガラケーを所持するけれど、スマホは持たないし、つぶやかず、顔も見せない。
世間とのつながりが、実は古風なムラ社会と変わらないと山崎氏が指摘するLINEも必要を感じない。
なぜ「つながって」いなければならない?
そうなのだ。
あたしの疑問はそこにある。

あたしは、このブログを世間とつながるつもりで書いているわけではない。
読んで欲しいけれど、強いるつもりはない。
書いたことで、自分が整理され、明日の一歩になるだけで、極めて個人的な日記のようなものなのだ。
そのまま遺書になればよいと思っている。

だったらそこいらのノートに書き散らせばよいものだけれど。
そこは、やはり世間に「石を投げたい」という欲求があるのだろう。
「つながり」というなら、そういうことだろう。
換言すれば、こちらから投げかける「つながり」であって、受身ではない。

たとえば、「助けて欲しい」みたいな投げかけはしないつもりだ。

答えは、あたしが出すのであって、他人様ではないのである。