ナチス政権の下で働いたブルンヒルデ・ポムゼル女史の独白でつづるモノクロームのドキュメンタリー映画『ゲッベルスと私』が大阪のシネ・リーブル梅田で上映され反響を呼んでいるそうだ。

私も毎日新聞の紹介(6月21日付夕刊)で知った。
ポムゼルさんの彫刻のようなポートレートが目を引いた。
彼女は106歳まで生きた、ナチスの証人だった。


ブルンヒルデ・ポムゼルはゲッベルス宣伝相の秘書を務めていた。
「あの時代はまるで波間にいるようだった。考えたのは私の命や運命。自分の事しか考えてなかった」と語る。また、
「今の人たちはよく言う。『自分たちがあの時代にいたら、もっと何かをしていた。虐殺されたユダヤ人を助けたはずだ』と。でも彼らも同じことをしたと思う。当時、国中がガラスのドームに閉じ込められ、みんな巨大な強制収容所にいたのよ」
とも語った。
彼女は死ぬまで独身で通した。
そこに贖罪の意味があるのかどうかはわからない。
もう誰も信じることができなくなったから、孤独を愛したのかもしれない。
この作品の監督は二人いる。いずれもオーストリア人だ。
オーストリアはナチスに最初に占領された国だった。
この作品はオーストリア人のフロリアン・バイゲンサマーとクリスチアン・クレーネスの共同監督作品なのだ。
バイゲンサマーは「彼女は過ちは認めるが、最後まで自分に罪はないと言い続ける。自分はゲッベルスの下でタイプを打っていただけで、ナチスがあれほどのユダヤ人虐殺をしていたのは戦後になって知ったと聞いている」と言う。
だから「自分が同じ立場ならどうしたか?」を映画を通して考え、訴えたかったと制作動機を語った。

また、クレーネス監督はポムゼルの死の直前の言葉を語った。
「トランプの演説、叫び方や言葉の選び方があの時代を思わせ、とても不快だった」と。

「あの時代」と現代は、科学技術の進歩や情報の広がり方などが違うけれど、私たちの中にあるものは変わっていないのではないか?右傾化する欧州でも日本でも、その何かが再び表に出てきているのではないかと、クレーネス監督は思いを述べた。

ポムゼルは当時、ユダヤ人の友人がいて、その人が殺されるかもしれないと、うすうす感じていたにもかかわらず、助けの手を差し伸べなかった。
その理由を「虐殺の事実を知らなかったから」と彼女は述べているが、ナチスの中心にいながらユダヤ人虐殺を知らないわけはなく、見て見ぬふりをした。
つまり、何もしないという行動を選択したのだ。
保身という言葉で片付けるのはたやすい。

バイゲンサマー監督は「オーストリアはナチスに占領され、以後ずっと被害者の立場を取って発言してきた。しかし、オーストリア人で保身のためにナチス党員になった者は、ナチよりも熱心にユダヤ人狩りをおこなった。クルト・ワルトハイム国連事務総長もそうだった」と吐露した。
私は驚きだった。
ワルトハイム国連事務総長といえば、私が子供の頃の偉人であり、平和主義者だった人だからだ。

「歴史を知らない今の若い世代こそ、こうした映像を見るべきだ」とクレーネス監督は締めくくった。
日本のヘイトスピーカーにも、まずこういった世界があったことくらい知っておいてもらいたいものだ。
自らいろんな作品に触れ、戦争経験者の話に耳を傾けることから始めないか?

両監督は気になることを教えてくれた。
「差別主義者(レイシスト)は常に人口の5%はいる」と。
昔なら「5%」は無視してもいい数字かもしれないが、今のようなネット社会では中間層にたちまちひろがってしまうのだそうだ。
「それを止めるのが映画人の仕事だ」と力強く述べた。

渡辺謙一監督の『天皇と軍隊』では、昭和天皇が戦争責任を取らなかったことが、国民の責任意識をなくしたというメッセージを込めていた。
それが「麻生財務大臣の部下の不祥事を擁護するような無責任発言を誘発している」のだ。
少しは残っていたかに見えた政治倫理は、これっぽっちも残っていない。
無責任を地でいくこと、そのような発言をすることに臆面もない。
渡辺監督は今月、新作映画『国家主義の誘惑』を公開する。
今上天皇の生前退位を踏まえ、安倍政権の暴走に歯止めがかかるのかをテーマにしているそうだ。
そこには衆愚の無責任が政治家の無責任を反映していると見えるのだ。

『ゲッベルスと私』はぜひ観てみたい映画である。