表題作とほか三作品が収められている。
この『いつか汽笛を鳴らして』は遅咲きの畑山博が第67回芥川賞に輝いた記念碑的作品だ。

畑山の経験からくる描写が細かい。
かれは旋盤工(フライス工?)の経験があり、そこでの生々しい作業環境や人間関係が描かれる。
そういう背景を舞台にしつつ、弱者の目線で冷徹に世の中の理不尽をえぐっている。
畑山の特徴的な作風は、どうにも救いのない人間ドラマを「救わない」結末に導くものだ。
彼の作品に「予定調和」はない。
だからリアルなのだ。
テーマへの伏線なのかわからない描写もあり、計算された作風ではない。
そこに読者はもどかしさを感じたりもするのだが結局、最後まで読ませてしまう。

まずしさからくる生活の匂いにも敏感だ。
主人公をとりまく人物はまず「口臭」から描写される。
「口臭」がその人となりをすべて語っているかのようで、私たちも口臭によって、その人を値踏みするではないか?
『いつか汽笛を鳴らして』には、前作『けものが撃たれるとき』という作品が影響を及ぼしている。
いずれもまったく別の作品であるのに、世界が同じに感じられる。
主人公の救いのない生い立ち。
『けものが…』には、非行のある未成年の主人公に保護司たちが、あの手この手で更生させようと世話を焼く。
その保護司の偽善が、少年のさめた目で語られる。
年増の女性の保護司(見習いか?)が少年担当としてつくが、「ぼく」はうっとうしく思いつつも、言われるがままに工場の仕事に就いている。
「ぼく」はギターを弾くことが唯一の趣味だった。ギターをすでに持っているのに、保護司の女に「ギターを買うからお金を貸して」とねだる。保護司は被保護者とのあいだで金品の貸し借りは決しておこなってはならない決まりがあるのに、女は「ぼく」にほだされて4千円を貸してしまう。
すぐにその詐欺行為がバレて、「ぼく」はふてくされて「じゃあ返すよ」と4千円を女のポケットに押しこんだ。
こういうやりとりが妙にリアルで、読者を引き込ませるのだ。
おそらく畑山氏が経験したことなのだろう。
この文庫に収められている『こま』はなかなかの佳作で、私は表題作よりも評価したい。
こんな悲しい話があるのだろうか?
タクシー運転手が通り魔的に殺される理不尽を、そこにいるかのように追う筆致。
釣銭をごまかして着服する、些細な出来心から、運転手の落命までをうまくまとめている。
タクシー運転手にとって、客は「恐ろしい」存在なのだということを思い知らされる。
もうひとつ『はにわの子たち』という問題作も収録されている。
これは障害児施設の悲哀、在日朝鮮人と思しい園長の男性の暴力と暴言、それに反発する職員の非力、いろいろ考えさせられる小品だった。
在日朝鮮人が悪いのだろうか、それだけなら「ヘイト小説」になってしまう。
彼らの立場も弱いし、障碍児を捨てるように預ける親御さんの立場も弱い。
園長の暴力にも一定の教育理念がありそうだし、一概に非難するわけにもいかない。
どうやら常習的に逃亡癖のある子に厳しくしているらしく、過去に重大な事故につながった経緯があるようだ。
ただそこに「言っても聞かないから痛い目に合わせる」という前時代的な発想があるのは否めない。
もちろん、今日的には一切の暴力が許されないことは承知である。

畑山氏は在日朝鮮人に、ある種の思いというか偏見もあるようだ。
あまりいいようには描かれていないからだ。
「事実そうなんだから仕方がない」と言われるかもしれない。
私の経験からもそうだから。
もちろん、そんなことは私の狭小な経験からくる偏見であり、もっと人懐っこい、恩情に満ちた朝鮮人も多くいるはずだ。

芥川賞受賞作の『いつか…』にも朝鮮人家族がでてくる。
そして主人公は兎唇(としん)、つまり口蓋裂のハンディキャップを負っている。
自分の苗字「河上」を「はわはみ」としか発音できないでいた。
ゆえに幼少期からいじめられてきた。
そのいじめっ子に在日朝鮮人の同級生「あぶ」がいた。
戦後のどさくさに彼の小学生時代が重なる。
学校には南方戦線の復員将校が持ち帰った孔雀が飼われていた。
その孔雀を竹の棒で、朝鮮人の「あぶ」がよくいじめていた。
「河上」には口笛という特技があった。
口唇の奇形から、その特技は生まれ、合唱コンクールで口笛のパートに抜擢されるほどだったが、それが決まるまで紆余曲折があった。
担任の女教師が、「河上」が醜いハンデのまま人前に立つことを恐れたのである。
民主的に多数決でクラスメイトが「河上」を推すのに、教師はなんとか彼にならないようにするのだが…
自棄(やけ)を起こした「河上」はその放課後に、「あぶ」がやっていたように孔雀を竹の棒でつついていたずらしていたところ、孔雀のお腹を刺し貫いてしまい、殺してしまったのだった。
幸い誰も見ていなかったのでそのまま立ち去ったが、あくる日、「あぶ」が犯人にされ、その疑いは晴れなかった。
彼の親も「うちの子はやっていないと言うている」と抗議するも聞き入れられなかった。
「河上」がひとこと「おれがやった」と言えば済む話だったが、その勇気が「河上」にはなかった。
「あぶ」はその夜、学校の講堂に火を放って自殺してしまう。
そういう暗い過去を背負って「河上」は大人になり社会に出て旋盤工になり、また別の在日朝鮮人一家と関わる。
仁子(じんこ)という奔放な女性と、兄の咸勝義(かんしょうぎ)、妹の新子(しんこ)。
咸勝義は、目の不自由な高校生の弟が街で、高校生の集団に暴行を受けた事件で、犯人や目撃者捜しのビラを駅前で撒いている。
ここでも畑山は障碍者で朝鮮人という二重差別を描いている。
「河上」も口蓋裂というハンデを背負い、高額な手術を受けてなんとかちゃんとしゃべれるようになったものの、やはり外観からくる差別には抗えない。
こういったどうしようもない理不尽を日常のこととして畑山は描き切るのだった。
そして結末は明るいとは言えない。
「差別はいけない」などと大上段に構えて畑山は決して言わない。
「差別があるのが普通」というのが彼のスタンスだ。

このブログで彼の『海に降る雪』(映画化された)と『ひたちうたがき』を取り上げたが、この芥川賞受賞作も梁石日(ヤン・ソギル)と比較して読んでもらいたい、戦後昭和文学である。