あの頃へ、戻れたらなぁ。
きっと、同じ過ちは繰り返さないのに・・・

そんなことを考えたことありませんか?
せんないことですけど。
あたし、よう考えてしまいます。
現状に不満を持ったらあかんのですけど、弱いあたしは、つい、そんなことを内心で考えてしまうんです。

大学四回生のあたしにタイムスリップ・・・

あたしは、湿っぽい実験室で試験管を洗ってる。
昨日もずっと洗ってた。
ここは油脂工業化学の研究室。
あたしの卒業研究の配属先です。
特有の酸化した油っぽい臭いと、溶剤の臭いが混じって、配属になった最初は胸悪くてしょうがなかった。

大谷さんという、五回生の先輩があたしの後ろに来て、
「なおぼん、メンツが足らんねん、三時に「大三元」な」と、耳打ちします。
※大三元とは大学の門前にある雀荘です。

「ええー。あたしあと二百本、試験管を洗わなあかんのにー。大谷さん、きんのも(昨日も)雀荘に行ってたでしょ」
「今晩、俺があと洗っといたるし。な、ええやろ」
「わかりました」
大谷さんは、汚れた白衣をひるがえして、部屋から出て行きました。

この研究室は「ゆるい」ので、五回生とか八回生とかまで配属されてる「掃き溜め」です。
あたし、掃き溜めの鶴みたいなもんです。(ええもんにたとえるなあ)

大谷さんらは「院生」とちゃいますよ。留年したはるんです。
あたしの実験パートナーがこの先輩です。
口ヒゲを蓄えた、むさくるしい感じの男性で、タバコ臭くって、フケだらけで、白衣はドドメ色で、スケベで・・・
でも、彼女、いたはるんですよ、大谷さん。
こないだ、パチンコ屋の前で見ましたもん。ちょっとケバイ人やったけど。

(ガスクロのエージングしてるのになぁ。三時から半荘して五時までには帰れるかな)
「あ、山本君」
後ろで、薄層クロマトグラフィーの薄層を懸命に引いてる同期の山本君に声をかけました。
※薄層クロマトグラフィーは有機物の分析の方法で、ガラス板にシリカゲルの粉をお粥さんのように溶いたものを専用の器具で薄く引いて層をつくるんです。ペーパークロマトグラフィーみたいなもんと思ってください。

「何?なおぼん」
「エージングがな終わってないねん。あたしこれから「大三元」に行かなあかんようになったし、頼めへんかな」
「また、大谷さんらと麻雀かいな。わかった、見とくわ。でも六時には帰ってきてよ。おれ、漫画研究会のコンパに行かなあかんから」
「はーい」
※ガスクロとはガスクロマトグラフという有機化学の分析装置で、カラムという細い管を加熱して分析するものなの。新しいカラムに交換すると、必ず慣らしのために「エージング」といって、空で加熱運転するの。

その日の「大三元」はすいていた。
窓際のテーブルに、大谷さん、高野さん、芝田君が席について、タバコをふかしたり、レイコー(アイスコーヒー)を飲んだりして待ってはった。
「よ、なおぼん。すまんねー。お忙しいところ」と背の高い高野先輩がおどけて言うの。
「もう、今回だけですよ」
「お好きなくせに。覚えたてのときは、やりたくてしょうがないやろ?」と芝田君
「何飲む?」
「レスカ(レモンスカッシュ)」
大谷さんが振り向いて、雀荘の主に「マスター、レスカ、一つ」
「まいど、おおきに」
「さ、やりましょか」と、くわえタバコの煙に目をしょぼつかせて、高野さん。ニコニコ顔です。

あたしは、こんな先輩方から、いろんなことを学んだよ。
お酒、パチンコ、麻雀、タバコ、エッチな話・・・

みんな、底抜けに明るかった。あの頃

将来は、なんの悩みもないって感じ。
何をやっても食べていくには苦労しないだろうと、漠然と思ってた。

「ああ、楽しかったなぁ。みんなどうしてるやろ?高野さんは、年賀状に家族写真を載せてたな。三人もお子さんがいて。大谷さんもあの彼女さんと一緒にならはった。芝田君は中学校の先生になったらしい。山本君は、行方不明や」

外は、ひどい雨・・・
寝床で、また、物思いにふけってしまうなおぼんでした。