あたしが若い頃、化学会社の研究員をやっていたころに、タイムスリップすることがよくある。
夢にだって何度も出てきた・・・。

あたしはシマ板の階段を降りていった。
カンカンと安全靴の乾いた音が工場内に響く。
蒸気でむっとしているのだ。
どの釜も仕込み中なんで、アクリルのにおいがかなりきつい。
そう、アクリル樹脂の工場だった。

巨大な10トン釜の横を抜けて、研究用プラントの方に向かった。

「主任!」
後ろから呼び止める者がいる。
高橋君だ。
ヘルメットがまったく似合っていない(まあ、あたしも人のことは言えないが)
今年入社した、学卒生だった。
「これ、製造連絡表の写しと持ち出し伝票です」
「あ、アルコールドラム缶の上に置いといて。ほんでな、高橋、ダイアセを二袋、イタコン酸の半途(はんと)をひとつ、持ち出しといて。
「ほな行ってきます」
「はい、お願い」

あたしは、入社三年目にして、副研究員(主任)を拝命した。
ついでに部下が一人ついた。
それが彼である。

「タカハシって呼び捨てで呼んでくださいね」と彼は最初に、あたしに言った。
そうは言っても、なかなか「高橋」とは呼べなかったあたし。
女の上司に、それも、あまり年も違わないのに、従うのは「嫌だろうな」と勝手に思い込んでいた。

それも、時間の問題で、今は遠慮なくあたしは呼び捨てにしているが。

「主任、ダイアセってどこでしたっけ」
つまらんことを聞いてくるなー。毎度・・・

「粉体(ふんたい)置き場やろ。20kgのセメント袋やんか。協和発酵て書いてある」
「あ、そうか。危険物倉庫を探してましたわ」
「覚えてや、ええかげん。ほんで、メタ酸を計量の津山課長に言うて、蒸気室に入れてもろてな、5キロ瓶に分けて取ってきといて。専用のドラポン使うんよ」
「は~い」

※ダイアセとはダイアセトンアクリルアマイドの略で、イタコン酸とともにアクリル樹脂の原料(モノマー)です。メタ酸はメタクリル酸の略で、常温では固体のため、ドラム缶ごと、蒸気室に入れて融解しておくの。ドラポンはドラムポンプのことで、灯油ポンプのでっかいのと思ってください。

「暑いな~。しかし」
工場内は10月というのに、もう35℃を越えようとしている。
ボイラーを焚いて、120℃の蒸気を送り込んでいるからだ。
じきに、今日も40℃に達するだろう。
ガラガラ、ガンガンガン、蒸気が重合釜のジャケットに送り込まれる音で、しゃべっても聞こえない。
「高橋、計量のダブルチェックお願い」
「はい」
計量は、天秤ばかりを使う。
ドラム缶が一個、乗るくらいの天秤がある。
ドラム缶は重いものなら満タンで200kg以上ある(塩素系溶剤など)。
普通の有機溶剤なら、180kg程度だろうか。

去年まで、これをあたしは一人で傾かせて、転がしていたのよ。
ドラム缶は倒してしまうと、もう一人では起こせない。
体重をかけて、少し傾かせて、自分の体に預けてバランスを取りながら転がすの。
最初は、空ドラムで練習するのだけど。

もちろん、長い距離は無理なので、その場合は専用の機械があるのよ。
それでも天秤に載せるときとかは、自分で載せなきゃなんない。

液体を30kg計量するとき、どうします?
その液体は180kgのドラム缶入ですよ。
天秤にドラム缶を乗せて、グロス(総量)を量ります。
ドラポンでステンレスビーカーに30kg抜き取りますが、これはドラム缶から引き算で30kg減ったことで、間接的に知り得ます。
まあ、このくらいの量なら、デジタルスケールを持ってきて、直接30kgを量りとってもええのですけど。

もっと大量なら、ドラポンでは追っつかないので、ギヤーポンプを使います。
ギヤーポンプのサクション側(吸い込み側)のホースをドラム缶に突っ込んで、出口側ホースを釜の中に差し込んでおきます。
ドラム缶は天秤に乗ってますから、引き算法で仕込んで行きます。
ホース内に残る分は、あらかじめ仕込む溶媒を使って吸い込み、洗い入れます(共洗い)
※トン単位の生産の場合、計量室から直接ラインを使って液送します。

グロス、テア、ネットという言葉を工場ではよくつかいます。
グロスはテア(風体、つまり入れ物)を含んだ総量で、ネットはグロスからテアを差し引いたもの。つまり内容量(実質量)です。
タンクローリーで荷下ろしするときは、タンクローリーのグロスをトラックスケールという巨大な天秤に載せて計ります。
そんで、地下タンクまで行って、液体原料を下ろし、またトラックスケールに載せて、減った分を知ります。
その量が、「入荷量」です。

仕込が終わる頃、二人は雨に会ったみたいに汗でずくずくになってました。
溶剤とアクリルモノマーのにおいで、汗のにおいもわかんないくらいですけど。
「主任、仕込み完了です」
「釜尻バルブの漏れないかぁ?」
「ないで~す!」と下から声がする。
マンホールを閉めて、ロックナットを締めていく。

釜の中は、攪拌はねと温度計が入っており、上には天蓋コイルというコイル上のパイプがぶら下がっている。
「高橋ぃ、U字管のバルブ閉まってるか?」
「はい、オッケーでーす」
「昇温はじめるよ」
あたしは、蒸気バルブを全開にした。ガラガラという音とともにジャケットに蒸気がボイラ室から送られてくる。
打点式温度計がカチンコチンと温度を記録し始めている。
「10時20分昇温開始と」あたしは湿気でへにょへにょのノートに書き込んだ。
「高橋ぃ!開始剤、量っといて」
「もう量ったありま~す」
やっぱり、二人はいいなあと思った。

あたしたちの作っていたものは、アクリル系樹脂を熱重合させた溶液で接着剤に使われるものです。
アクリルモノマーを数種類、エチルアルコールに溶かして、重合開始剤としてベンゾイルパーオキサイドとかアゾビスイソブチロニトリルを使って、加熱すると、粘性が上昇して、水飴みたいな溶液になります。

いよいよ、エチルアルコールの沸点に近づいた。
釜内の様子はマンホールの窓から覗くことができる。
まず、攪拌軸のあたりに霧のようなものがただよい始める。
その霧が雲になって、窓に無数の雨粒となって当たり、窓の向こう側を滝のように流れたかと思うと、ぱっと晴れて釜の中が見通せる。
そう、アルコールの雨が降ったんだ。

ランタンに還流が帰ってきた。
「蒸気止めて、開始剤入れるし」
「はい、蒸気バルブ全閉(ぜんぺい)します」
※ランタンとは加熱により、蒸気になったアルコールがコンデンサー(冷却器)を通過して液化されて戻る「還流」を見るためのガラス窓の付いた部分を言います。

液面が粘性が上がってくると、マンホール近くまで上昇する。
「コイルに注水!天蓋に水をかける準備しといて」
「了解です!」
これで、吹きこぼれは免れた。
「ジャケット注水しましょか?」
「まだええ。冷えすぎたらあかんし。ほら、還流が止まってきたで。たぶん、大きい釜の昇温も始まってるから、蒸気を取られてまうねん」
打点温度計を注視する二人。
「ジャケット温度が下がりすぎると、内温も遅れて下がり出す。この上下を最小限にするんよ。高橋君」
「このままいきますか?」
「還流を止めんように、蒸気量を調節してみて。あたしは一旦、研究部にもどるわ。あとは任せるよ」
「はい」

研究が使う設備は、せいぜいこの300キロ釜が最高だけど、生産設備になると、最低でも1トン釜、最高20トン釜まである。
研究用プラントから、スケールアップして1トン釜、3トン釜と出世していくのだ。


あたしは、わけあってその会社を十年ほど前に辞めたけど。
今は、高橋君は、あの会社の主任研究員になっているとか。
結婚もして、二人のお子さんもいらっしゃる。

ふと、昔を思い出した、なおぼんです。