もう来週は立秋です。
あたしが隠遁している井手町大字多賀でもヒグラシの声が聞こえるようになりました。

あたしは小さいころ、ヒグラシの声、そう「ハナ、ハナ、ハナ」と消え入りそうに聞こえるあの声が、どうしてもセミの声だとは信じられませんでした。

あたしはてっきり、鳥の声だと思っていたのです。

従弟の浩二は「ちがう、セミや」と言って引きません。
昆虫図鑑にもヒグラシは「カナカナカナ」と鳴き、別名「カナカナゼミ」というとありましたので、信じるほかなかった。

ヒグラシは子供らの間では珍しい昆虫で、めったに捉えることができない貴重なものでした。
まだ、カブトムシやクワガタのほうが捕まえやすかったくらいです。

高校生になって夏休みに「フィールドサーベイ」という泊りがけの行事に参加したことがありました。
科学部が主催するこの催しは、自然に触れて、現地の文化に親しみ、先生と生徒の親睦を深めるのが趣旨でした。
生物の植村というスケベな先生がいっしょに参加されてたのですが、植村先生にあたしはヒグラシの実態を見せてもらうことができました。
「横山、この木にヒグラシがおるわ」
飛騨の山の中で、先生が指さします。
その日の、その辺りは雲が多く、夕方から雨になるという予想でしたので、ヒグラシが早くから鳴いているのは聞こえていました。
「センセ、つかまえてぇな」
「よっしゃ待っとれ」
そういって、隣の木に登って、ヒグラシがいるという枝に近づいていったのです。
あたしは目を凝らしましたが、ヒグラシの姿はとうとう見つけることができませんでした。
ほどなく、
「よっ…つかまえたで」
先生がそう言って、木から飛び降りてきたんです。
けっこうな高さがあったと思います。
三メートルくらいでしょうか。
「だいじょうぶですか?先生」
「なんの、なんの。ほらこいつがヒグラシや」
先生がつまんでいるのは、クマゼミを一回り小さくしたような、何の変哲もないセミでした。
鳴くかとおもって待っていましたが、鳴きません。
あたしは植物採集用のドウラン(胴乱)を下げており、そこにヒグラシをしまい込みました。
するとどうでしょう。
「かな、かな、かな…」
鳴き出したではありませんか。
「センセ、鳴いてる」
「な、ほんまやろ?」
植村先生は、にんまりとして、先に行ってしまいました。
あたしは、ドウランからヒグラシを取り出し、逃がしてやりました。
セミの成虫の寿命は二週間と言います。
その間にお嫁さんを見つけて、交尾をしなければなりません。
あたしのために彼の邪魔をしてはいけないからです。

夏の終わり、ヒグラシの鳴く頃、あたしは優しい気持ちになるのでした。