安保関連法案に対する反対デモが数万人に膨れ上がり、国会議事堂を取り巻いた・・・
あたしだって行きたいわ。

恐れおののいたのは自民党議員だけではなく、橋下徹もだったようね。
「こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ」
と、ツイッターでほざいているし。

菅官房長官や谷垣幹事長も苦笑いの苦言を呈するという有様。

デモに参加した若い子は「目覚めた」みたいなことを言うし。
遅いんだよ。
あたしに言わせれば。

もう、先手(自民)は「寄せ」の段階に入っていて、あとは「詰めろ」だ。
どうすんのさ?
将棋盤をひっくり返すわけにもいかず・・・

菅、谷垣らは実は余裕なのだ。
当面、安倍長期政権は続くのだし。
なにもかも「遅かりし由良之助」よ。

無関心だったくせに、お祭り騒ぎで、デモをしたって、はた迷惑なだけだって言われるよ。
香港の「選挙反対デモ」だってそうだったろ?

「中国と戦争をしないようにもっていくのが政府の仕事だ」ともっともなご意見も聞けた。
「同盟国の契りを強化して、対中抑止力にする」という政府自民党の考え方に真っ向から意見する勇士。
「じゃあ、先に中国に攻められたらどうすんの?」
これには、答えに窮する勇士も、
「そうならないように、話し合いを続けるのだ」と苦しい。

あたしなら、こう答える。
「やらせてやる。そして占領され、犯され、奪われても、ただ耐えて、ひたすら生きぬいてやる」と。
「不戦の誓い」は、「特攻」を企てるのと同じくらい肝が据わらないとできないのだ。
安倍が「国民の命と財産を守るため」と日米同盟を強調するが、あたしは「守ってもらわんでいい」ときっぱりいう。
マハトマ・ガンジーが貫いた「不戦の誓い」
蹂躙されても、銃を取らない。
殴られても、殴り返さない。
「好きなだけ殴るがいい。私はここにいる」

そうすれば戦うための「自衛隊」はいらない。
災害の時に人を助ける、人道の「自衛隊」だけが存在する。

さあ、殴られる肝は座っているか?
そのうえで、デモに参加せよ。
たといあなたが、自身の子を殺された母親であっても、身を投げ出して「不戦の誓い」を高らかに謳いあげることができるか?

そうでないなら、おとなしく、銃を取れ。
敵を殺せ。
やらねばやられるのだから。

それがあたしの「対案」だ。
銃を取るか、不戦の誓いに命を賭けるか。
二つに一つだ。
逃げるな。
それだけだ。

ただ、それは究極の選択をせねばならない戦時下の場合であって、今は平時である。
まだまだ、中国や韓国と、はては北朝鮮と胸襟を開いて話し合う努力ができるではないか。
究極の場合を想定した行動を取ることは、話し合いのテーブルに着くための外交努力に水を差すだろう。
日米も大事だけれども、日中・日韓も同じくらいに大事なのだという考え方を先の大戦で我々は学んだはずだ。
気に障ることもあるだろう。
それはお互い様だからね。

われわれが、そういうことに命を賭けないでもいいように「憲法九条」はある。
中国も韓国もロシアもそれはよくわかっているから、日本の右傾化に噛みついてくるんだ。
元首が「靖国詣」をやめるだけで、中韓の態度は軟化するだろうね。
「屈した」と思う心が、もはやあたしに言わせたら、「不戦の誓い」から遠ざかるのよ。
屈したらいい。
自虐なんかじゃない。
百歩譲って、自虐に耐えられへんのやったら、そもそも話にならない。
英霊を弔うのは個人の問題であって、国家がすべきものではない。
なぜなら「戦争の結果」だからだ。
戦争には必ず勝った側と負けた側が存在し、その恨みつらみは永久に残る。
そこを切り離し、周辺国の立場を踏まえて外交に勤しめば、日本は美しい国になれる。
その暁には、首相が懸念する「謝り続ける」ことにも終止符が打たれるはずだ。


橋下の言うように、デモで政府が屈することはない。
民主主義に反する立法府を民主主義に反する方法で糾弾しても、何も生まない。
「革命」を起こすような前時代的な話では、もはや解決しないのだ。
だから選挙はよく考えて投票行動してほしいのだよ。

あたしからはそれだけ。