日差しが、南中高度を過ぎ、やや西に傾いた頃、ぼくの乗ったバスは、ようやく垣内(かいと)集落に到着した。
サブザックを肩にかけ、料金箱に銀貨を投入してぼくはバスを降りた。

やはり、客はぼくだけだった。
途中、五十くらいのおばさんが乗ってきたが、赤谷(あかたに)で降りてしまった。

ウグイスがはっきりとホケキョと鳴いている。
垣内は、谷筋にそって細長い集落だった。
ここには、祖母の妹の静江おばさんが住んでいる。
ひどい斜視で、五十代後半の女性だが、ぼくのことなど覚えちゃいないだろう。
もちろん、立ち寄る気はない。

郵便局を右手に見て、角(かど)を山の方に曲がって登って行くと、一本道が曽根山まで続いている。
杉木立の中を、ぼくは足取りも軽く歩いて行った。
見た目は、さほどでもない坂だったが、一旦、山に入ると、急に登り始める。
ここは、軽トラックぐらいがやっと通れる道幅だった。
端に道祖神らしき石像が数体、並んでいる。

電柱もなく、夜はまったく明かりはないだろう。

まっすぐに伸びた杉の柱が、延々と続いていた。
甲高い、何の鳥だかわからない喧騒が、ぼくを驚かせる。
二十分ほど登ったろうか?
木々の切れ目が明るい広間を作っていた。
先が少し下っている、峠のような場所だった。
ぼくは、小休止することにした。
ペットボトルのお茶をぐっと喉に流し込んだ。
空が青かった。

再び、ぼくは歩き出した。
飴をしゃぶりながら、ぬかるみをやり過ごし、誰かがつくった、木の階段を登り、シマヘビをまたぎ、曽根山山頂と書かれた銘板のところまでやってきた。
下に、垣内の集落が見えている。
その向こうは、山また山の重なりだった。
ここまで来ると、高圧線の鉄塔などはまったく見えない。
足元に三角点があって、標高が924mと銘板には書いてある。

鬱蒼と灌木の茂った方に道は下っていた。
その先に多々良集落がある。
あとは下りだけなので、楽だった。
おそらく、半時間はかからないだろう。

三時前には、多々良に到着した。
最初に出迎えてくれたのは、淳子の母親の幸子叔母だった。
「あらぁ、浩(こう)ちゃんよねぇ。ちょっと見ないうちに、おっきくなってぇ」
相好を崩して、モンペ姿で小走りに近づいてきた。
四十になったかならないかくらいの若い叔母。
日焼けして、エクボの魅力的な優しい叔母。
「こ、こんにちは・・」
「ほんと、見違えたわ。高校生になったんやてねぇ」
「はい。中間考査も終わって、お祖母ちゃんの手伝いに」
「助かるわぁ。男の人、いないでしょう。いつまでいるの」
「農繁期休暇をもらったんで、来週の日曜まで」
「お祖母ちゃん、二番畑できゅうりの手入れをしてるわ、うちに来なさいよ」
「じゃあ。淳ちゃんは?」
「家にいるわ。寒冷紗をつづくってるかも」
寒冷紗(かんれいしゃ)とは、農作物を遅霜や日光から守る、黒い網だ。

S字にゆるくカーブしている下り坂が淳子の家につながっている。
曲がり屋の短い方が納屋になっていて、その出口のところで、女の子がしゃがんでなにやらやっていた。
淳子だろう。
「淳子、浩ちゃんが来たよ」
叔母がそう言いながら、生け垣を回りこむ。
カラタチの生け垣が青々と葉を密生させていた。
「え?こうちゃん?」
三つ編みの少女が、白い歯を見せてはにかんだようにこちらを向いて立ち上がった。
「こ、こんちは」
ぼくは、そう言うのがやっとだった。
ぼくの知っている淳子は、もっと幼かったから。
向こうも同じ気持のようだった。

ほうじ茶とあんころが出され、縁側に三人が座った。
「淳ちゃん、きれいになったな」
「いやだぁ。こうちゃん」
すぐに、うちとけたのは、屈託のない淳子の性格のせいだと思う。
「お祖父ちゃんの葬式以来だよ」
「そんなになるかな」と、叔母
叔母は、母の妹なんだが、その健康的で豊かな体躯を前に、ぼくは目のやり場に難儀した。
また、淳子も、すらっと背が伸びて、編んで束ねた黒い髪が印象的だった。
ぼくは、この時ほど女性を意識したことがなかった。
働いて、汗をにじませた女の顔はこうも、魅力的になるものなのだろうか。
化粧もしない、田舎臭い姿の中に、野性的というか、原始的な女の魅力があった。
「何、みとれとんの、こうちゃん」
とうとう、叔母に指摘された。
「あ、あの、なんもない」
「美女が二人も前にいたら、こうちゃんもたまらんわな」
そう言って、母娘は笑った。

そのあと、淳子と二人で、祖母の家にまわり、いないので二番畑に向かった。
「こうちゃん、高校に行ってるんやろ。どう」
年上らしく、そんなことを訊いてくる。
「まあまあ」
「彼女、できた?」
「そんな、ひまないわ」
「勉強、難しいん?」
「英語がな。ぼく、苦手なんや。淳ちゃんはどう?」
「あたしも高校に行きたかったなぁ」
しまったと思った。むごいことを尋ねてしまった。
「ごめんな」
「ううん。あたしは、いいのよ。母さんの田んぼを継ぐって決めたんやから」
ハキハキとしゃべる淳子は、昔と変わらない。
「農繁期って学校を休めるの」
「うん、上田高校にはそういう制度があるねん。昔から農家の生徒が多かったから」
「ふうん」
石垣を施した段々畑の下をうねうねと登っていく。
道端に猫車が見えて、そこにほっかむりをした老女を見定めた。
「お祖母ちゃん!こうちゃんが来てくれたんよぉ」
淳子が手を振りながら叫ぶ。
祖母が、腰を伸ばしてこちらを仰ぐように見た。
見覚えのある、が、しかし、かなり皺を刻んだ顔がそこにあった。
「おお、こぉちゃん。てったいに来てくれたんかぁ」
特徴のあるイントネーションで声をかけてくれた。
「お祖母ちゃん、元気かぁ。こんにちはぁ」
ぼくも、走り寄って、再会を喜んだ。

その晩は、多々良の人々がお祖母ちゃんの家に集まって、ささやかなぼくの歓迎会を開いてくれた。
多々良の集落の人は全部で十人。
皆、親類縁者だ。
半数が老人といえる歳だと思う。
残りの五人が、三十代から五十代の女性と、十七歳の淳子だった。
男は、祖母の兄二人だけである。
庄之助さんと奈良蔵さんで、ともに七十を超えている。
奈良蔵さんは慈照寺の住職でもある。
淳子と叔母の幸子、伯母の恭子、叔母の従姉妹にあたる、里美と秀子だった。
まだ高校生だというのに、ぼくと淳子は、みなから酒を勧められ、したたかに酔ってしまった。
「こんな、たくましか子が来てくれたら、田植えもはかどるわな。ばあちゃん」
「はいな。こぉちゃんを頼りにしとるよぉ。五つも田んぼがあるかな」
「がんばります」ぼくは、頭を下げた。
「ええ、男やなぁ。ひさしぶりで」と里美さん。かなり酔っているらしい。
「姉ちゃん、だんながおるやろが」と、妹の秀子さんにたしなめられる。
「おっさん、大阪に出たまま、てっぽ弾や。音沙汰なし!」
わははは、と、どんちゃん騒ぎである。
「ちょっと、ちょっと、里美ちゃん、こうちゃんに手ぇ出したらあかんよ。尚子姉ちゃんの大事な息子なんやから」
「わかってますって」
里美さんは、へらへらと笑って、わかってんだかどうだか、ぼくの手を離さない。

終始静かだった恭子伯母さんが
「こうちゃんは、童貞か」と、いきなり訊かれてとまどった。
「あ、いや、そら、そうですよ。伯母ちゃん」
「その子らに教えてもらえ」と、庄之助さんが割って入る。
その子らとは、里美と秀子のことらしい。
「もう、こうちゃん、行こ」
ふくれっ面で、淳子がぼくの手をとって、この場を出ようとした。
「もう行き。子供らは寝てしまえ」
と奈良蔵さんが助け舟を出してくれた。

ぼくと淳子は、お祖母ちゃんの家の奥の間に向かった。
そこに荷物を置いて、寝間も取ってあったからだ。
「こうちゃん、酔っ払った?」
「うん。ちょっと」
「みんな、むちゃくちゃやなぁ。子どもにお酒のましてから」
「いつもあんなんなん?」
「お酒が入らんかったらええ人なんよ」
「里美さんって、こわいなぁ」
「やらしいやろ?あの人。あたし嫌いや」
ツンと口をとがらせる淳子だった。
「もう寝るか。こうちゃん」
「うん。明日、田んぼに出なあかんしな」
「そやね。じゃ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
そうして、その晩は寝ることができた。
遠くで、女達の喧騒を聞きながら。

(続く)