「嘘つきは泥棒の始まり」ということわざがある。
これは日本人なら誰でも知っていることわざだろう。
しかし、その出典となると、どうやら英語圏らしい。


先日、モンテーニュの『エセー』の中の嘘のくだりを引いた。

日本で「噓つきは泥棒の始まり」について最初に言及したのは民俗学者の柳田国男だそうだ。
He that will lie will steal.(嘘をつく者は、やがて盗みもはたらくだろう)
これが、英語の原文だそうだ。

「嘘=悪」と考えると、微罪である嘘を平気でつく者は、悪事を行うことへのためらいが毛頭なく、だんだんエスカレートしていって、さらに重い罪の悪事である「窃盗」を行うだろうことは想像に難くないという意味だろう。

しかし柳田は、日本古代においては「嘘=悪」ではなかったと説明する。
つまり日本人には「嘘」と「偽り」の二種類の概念があって、「嘘」は会話の潤いとして、戯れにつく他愛のないものであり、一方で、「偽り」を言うことは罪深いものだったと。
英語でも"white lie"と言えば、そういう他愛のない嘘をいうのだそうだ。
このことはモンテーニュが『エセー』で論じていたことと通じるのではないか?
だから古代の日本人にとって「噓つきは泥棒の始まり」だと戒めても、「嘘も方便でっしゃろ?」と軽くいなされるのがオチだった。
しかし中世以降は、人々にも悪知恵がつき、「嘘」も「偽り」も垣根がなくなってきて、悪意ある「嘘」で人々が騙され、社会が「嘘」を許さなくなってしまった。
明治期になって西洋の道徳や文化が、怒涛の如く日本人の頭に入ってきて、「和魂洋才」で定着した道徳が「噓つきは泥棒の始まり」だったのだろう。

ものの本には、日本語の「嘘」は「うそぶく」から来ていて、「うそぶく」とは口笛を吹くことであると説明している。
色の美しい小鳥に「うそ」という種類がいるが、その鳴き声が人の口笛に似ているから名付けられたという。
この場合「口笛」といっても、比喩としてそう言うのであり、照れ隠しや、ばつの悪いときの転嫁行為、見栄を張るときの大言壮語などを「口笛」になぞらえていたのではないか?
そうすると、人の不安定な心理状態からくる「嘘」は愛すべき行為なのである。
決して「偽り」を述べて、詐欺を働こうということではないのである。

したがって、私の場合も「嘘」であり、「嘘も方便」であり、会話の潤い、フィクション、創作…なんとでも言えるが、そういうものなのだ。
「偽り」を言って、だれかを瞞着したり、貶めたりするものではないと信じているのだが…
「いや、あなたは虚言癖というか作話症という病気ではないのか?」と、言われるかもしれない。
もしそうなら、世の中の作家、小説家はみな「作話症」ではないか?

「嘘」ひとつとっても、なかなか面白いテーマではある。