この本も何度も読んで、このブログでも触れたこともある。
いまは、カバーもどこかに散逸し、扉は外れて、辛うじて挟まったままだ。
なんで惹かれるのだろうか?
男と女の濃密な時間。しかし、二人の心は行き違っている。
ゴンチャロフの『オブローモフ』を彷彿とさせる、主人公の「食っちゃ寝」ぶり。
彼は「開高健」その人であるはずだが、明らかにはされていない。
そして相手の女性も「女」としか表現されない。
どこか近代美術のオブジェのような二人。
西ドイツ(当時)の、ライン河畔のボンとベルリンが主な舞台と想像させる。
「私」はベトナムの戦場から帰ってきたばかりの「従軍記者」らしいことがわかる。
もっとも開高健のファンであれば、「私」は開高その人であり、ベトナム戦争において米軍に従軍していた作家であるということなどを踏まえれば説明の必要がないだろう。
「女」が、彼の夫人である牧洋子氏ではないこともほのめかされている。
どうやら佐々木某という女性の名前が、消息筋からは取りざたされているが正確なことはわからない。
当時、洋子夫人とは没交渉であり、夫人を置き去りにして世界を飛び回っていた開高であるから、ありうる話である。
ただ、私は、彼の創作と思って読んできた。
なんとなれば、「女」のセリフはどうも開高の内面からくる、もう一人の彼のもののように思えてならないからだ。
すると、この長い男女の会話は、実は孤独な開高のモノローグではなかったか?
私はそう思うのだ。

開高の文体の特徴である言葉の巧みな用い方。
それが食やセックスに対して、繊細で大胆な表現が新鮮だ。
今でいう「食レポ」の先駆が開高だと思う。
『夏の闇』では「性レポ」に軸足を変えているところが、私にとってうれしいのである。
かねてより私は食と性に近しいものを感じていた。
舌で味わう…フロイトを持ち出すまでもなく、人はまず舌で快感を得ようとするのだ。
キスしかり、フェラチオしかり、クンニリングスしかりである。
舐めまくる愛情表現は、洋の東西を問わないのである。
舌だけではない。鼻が近所にあるから嗅覚が自ずと併用される。
まさに食がそうであるように、性も匂いと味が相まっているのである。

とはいえ『夏の闇』がそういう表現に優れているというだけでは、木を見て森を見ずだ。
もっと深いところに、孤独の、恐ろしいくらいに不活性な部分が書きだされている。
「私」は食欲と性欲以外で動くことはなく、極度の対人恐怖症で、「女」意外の他人とあいさつを交わすことも、いたたまれないほど疲れているのだった。
革のソファには、自身の鋳型ができるほど寝て暮らしている。
「女」はそれを咎めない(最初は…)。
「私」の好きなようにさせてくれるのが「女」だった。

物語の中ほどで「私」が「女」と最初に行き違う場面がある。
「女」は考古学で博士号を狙っている。
とにかくがむしゃらに彼女は生きてきた。
博士号を得たあかつきには、その次には目標があるのか?
「きみには夢中になれるものがあるのか?」と「私」は不躾にも問うたのである。
「孤哀子(クーアイツ)」とベトナムでは呼ばれるような「女」の生い立ち。
「女」は日本人でありながら、日本を憎んでいる。
だからドイツでわき目もふらずに生きてきたのだが、女としての喜びを犠牲にしてきたことを指摘されると崩れ、自我をむき出しにするのだった。
「子供が欲しい」その一言が、私には痛いほどわかるのである。
若い頃は「子供なんか邪魔なだけだ」とうそぶいていたのに、年を経て、人の親になれるかどうか最後のチャンスに差し掛かるとき、女というものは「子供が欲しい」なんていうことをつぶやいてしまうのである。
完全な敗北…完膚なきまで打ちのめされる自我。
何でも自分で切り開いて、自信をつけた「女」が、「私」の一言でいとも簡単に陥落したのである。
それまで虚勢を張っていた自分に気づかされた「女」
結婚も捨て、子孫を残すなんてことも捨てて、ひたすら学問に身を投じた「女」。
それは彼女の母親への復讐でもあったようだ。
「だけど、さっきいったみたいに心細いことが多くてね、ふっと子供がほしくなったりするのよ。以前には考えてみたこともなかったし、頭からふり捨てることにしてたんだけど…」(p150)

「私」はそんな「女」を慰める言葉を持ち得なかった。
ただ「どこかへいこうか」と釣りに誘うのが精一杯だった。
ここから物語は新しフェーズに急展開していく。
牢獄のソファから、大自然の湖へと。
パイク釣りに「女」を誘った「私」は生き返ったのだった。
※ここでの「パイク」とは「ノーザンパイク」という獰猛な淡水産の巨大魚であり、「カワカマス」の仲間である。主に擬餌針で釣る、スポーツフィッシングの対象魚だ。

ここからは開高が『フィッシュ・オン』や『オーパ!』などで再三、描いている内容と重なる。まさに「水を得た魚」のごとく筆がさえる。

私はやはりこの「女」が開高健のもうひとりの人格のように思えてならない。