八月四日、おれと根岸さん、杉本さんの三人は信州行きの長距離バスに揺られていた。
「穂高駅からタクシーで中房温泉の登山口まで行くわよ」
「温泉があるんですか」
「そうよ。入る時間がないから、今回はパスするけど」
とは、杉本さん。
夏とはいえ、2000メートル級の北アルプスだから防寒具は必須だそうだ。
あれから、二人のアドバイスでそういうものを揃え、今回の旅費と足して5万円近くもかかってしまった。
会社では、おれと根岸さんが山に行くので、一緒に夏季休暇を取ったもんだから、みんなから冷やかされた。
「なんだ根岸さん、旦那のいないうちに菅野をたぶらかして、知らないよ」と谷口部長が笑い、おれに「気をつけなよ」と冗談で注意した。
「ひどいわ部長。ほかのメンバーも一緒なんだから、心配ご無用です!」と根岸さんも反論したものだった。
おれは、上高地の山々を車窓からながめながら、物思いにふけっていた。

しんしましま(新島々)という妙な名前のところでトイレ休憩をとり、そのままバスは穂高へ向かった。
昨日の晩に八重洲口を出て、一晩中バスで過ごし、朝日に輝く安曇野をバスが行く。
「男性と一緒に山に登るのって、初めてじゃない?律っちゃん」
「そうだねぇ。こんな若い人とねぇ。レイコは独り者なんだし」
「よしてよ。ごめんなさいね菅野さん」
「い、いや、おねえさん方は素敵ですよ」おれは、何を言ってるんだろう?
「おねえさんだって。あははは」
窓際のおれは、赤くなった。
「菅野君は兄弟とか、いるの?」杉本さんが尋ねた。
「姉がいます。もう結婚して子供もいますけど」
「そうかぁ、だからか」
「なにがです?」
「年上がいいんでしょ?」
「男はみんな、年上が好きですよ」と言っておいた。
「うちは旦那のほうが五歳も上だわよ」「そうだっけ」「この歳になりゃ、歳の差なんかどうでもいいわ」
四十路の二人が勝手にしゃべってる。

JR穂高駅でバスを降り、タクシーを捕まえた。登山客が多いのか、タクシーが数台並んでいた。
「どこまで?」「中房(なかぶさ)までお願いします」
運転手と根岸さんがトランクに荷物を積みながら話している。
朝焼けの安曇野をタクシーが走り出した。
「ほら、あれが有明山」
杉田さんが指さす方向に、富士山を小さくしたような山が見えた。
「あそこに登るんですか?」
「ううん、あの山は低いわ。あたしたちはその奥の燕岳(つばくろだけ)をまず目指すの」
「今日はいい天気ですよ」と運転手が言う。
「登山する人、多いですか?」根岸さんが聞き返す。
「そうね、おもて銀座は、この夏休みは多いね」
おれたちが行く北アルプス縦走ラインは別名「おもて銀座」と呼ばれ、登山客の多さで有名らしいことを、根岸さんから教わっていた。
「子供でも登ってるんだから、菅野くんなら大丈夫よ」と、励まされているのか、バカにされているのかわからない言葉を根岸さんから頂戴した。
そうこうしているうちに、タクシーがきつい上り坂のワインディング・ロードにさしかかり、右に左に振られる。

開けた場所に出て、タクシーは砂利の上に留まった。
中房温泉と書かれた建物があり、そこが温泉宿のようだった。

運転手さんが、「山の天候は変わりやすいです。今は晴れてますけど、毎日、山頂では雷雨が発生しているようですよ。気を付けてね」と、助言してくれた。

重いリュックを前に並べ、おれたちは運転手さんに頼んでシャッターを切ってもらった。
出発前の記念写真だ。
山荘の脇から、登山道が始まっているらしく、入山記録を書く祠(ほこら)のようなものがあった。
ノートとボールペンが備えてある。
「ちゃんと、住所氏名を書くのよ。これがマナー」
と、根岸さんから教わる。
さあ、いよいよ登るのだ。
肩に食い込むリュックに気後れしながら、根岸さんのあとを追う。
おれがまん中で、しんがりを杉本さんが務めた。
「どう、靴、痛くない?」「大丈夫っす」「痛くなったら言うのよ」
杉本さんが、なにくれとなく気を遣ってくれる。
一歩一歩が、普段の歩きと全く違って、すぐに息が切れてくる。
「しんどいでしょう?最初は、慣れるまできついかもね。空気も薄くなってるから、休んでいいのよ」
「はぁ、はぁ」
返事にならない。もう額から汗が滝のようにあごの方へ伝って、しずくとなって、地面に落ちるのが見えた。
「こりゃ、地獄だ」
「まだ、植生限界までだいぶあるわね」
植物がまだ生い茂っているので、高山のうちに入らない高さなのだそうだ。
途中に「合戦小屋(かっせんごや)」という休憩場所があるというのだが…まったく見えない。
根岸さんは、ひょうひょうと軽やかに登っていく。
リュックの重さは、おれのが8キロで、根岸さんも、杉本さんも11キロ近くを背負っている。
調整してくれたのだ。
二人っきりの登山なら一人15キロも背負うのだそうだ。

下りてくる親子連れに出会う。
「こんにちはぁ」
元気に女の子があいさつしてきた。おれも「こんにちは」と返す。
そして後ろの父親らしき人にも「こんにちは」とあいさつした。
これも山登りのマナーだ。
「もうすぐですよ。合戦小屋」とその人は教えてくれた。
「ありがとうございます」
おれは、うれしかった。

人の声がする。
木々の間に、建物らしきものが見えてきた。
「さあ、休憩よ。もうすこしがんばろう」杉本さんが激励してくれた。
「はいっ」

そこは、別世界だった。
おおげさだが、登山初体験のおれにはそう思えた。
「ちゃんと、お茶、飲みなさいよ。それから行動食を食べて」根岸さんが、リュックを開けながら言う。
合戦小屋の広場では登山客が思い思いに休憩を取っていた。
おれは、水筒のお茶で口をゆすぎ、飲んだ。
溶けかけの板チョコを半分ほどくちゃくちゃ噛んで食べた。
うまかった。
そこはまだ、植生限界ではなかった。
目指す燕岳は岩肌の見えた、はげ山だった。
「さあ、もうひと頑張りしましょう」
根岸さんが音頭を取って、また行軍が始まった。