杉田久女(1890~1946)は「ホトトギス派」の女流俳人として知る人も多いと思います。
本名が杉田久子(ひさこ)なので俳号を「久女(ひさじょ)」としたのは、明治・大正期の女流俳人の流行だったのかもしれない。

この人は、当時としては高学歴の女性で、今のお茶の水女子大附属中学および高校(当時は東京女子高等師範学校附属中学および高校)を出て、その卒業試験の歴史の小論文が、「甲上」の評価でその講評には「殆ど完全、秩序的によく書かれたり」とあった。
どういう設問だったかと言うと、
「ウェストファリアの条約とは何か」ほか二問(「南京条約の説明」と「江戸幕府が大政返上に至りし次第」)だったらしい。
久子の「ウェストファリアの条約とは何か」の論述を以下に示そう。
「一、一六四八年十七世紀の中頃、欧州の政教紛争あり、即ちドイツに於ける三十年戦争なり。その終局に於いてシュワイツ(スイスのこと、なおぼんR註)、オランダ独立し、スェーデン、フランスは領地を得、ドイツは疲弊せり。すなわちウェストファリアの条約は三十年戦争の終局にして政教紛争の一段落を告げし結果の条約なり」

これより余問の答案も素晴らしい出来であったようだ。

当時大蔵官僚だった父親は、いたく感激し、娘の答案を末代にまで語り継ぐべしと、大切に保管したという。
※参考文献『底のぬけた柄杓』(吉屋信子、新潮社刊)

赤堀久子(旧姓)は、幼少の頃より、父の赴任先を転々とする生活だった。台湾にも住んだし、琉球にもいたことがあった。
久子も中学、高校とと東京にいたが、父親の故郷は信州松本だったらしい。
また、生まれは鹿児島だとも伝わっている。

そして東京で、人の勧めにより美術学校生の画家の卵と見合いし、結婚する。
久子も「画家の卵」という当世の憧れの男性に惹かれたらしい。
同級生がみな学校を出ると、教師になるか、嫁に行くかいずれかの時代である。
たいていは、親の勧めで嫁に行ってしまうのだけれど。
夫となる人は杉田宇内(うない)といった。
絵で名を成したいと、気鋭の好青年だった。
しかし、絵で食べていけるほど世間は甘くなかった。
久子もそれは承知で、苦労が報われ、夫が高名な画家になるだろう将来を想像して、前向きに夫を支える心づもりだった。
夫は北九州小倉の中学の美術教師の職を得、夫婦で九州に下る。
いずれ名を成す夫のために、しばらくの辛抱だった。
しかし、暮らし向きは一向に好転せず、夫は自分の絵画制作にまったく身が入らない。
あろうことか、中学教師で終わってもいいとまで言うのだった。
久子は、絶望し、夫婦仲が冷めていった。
高等師範で同級だった親友が、理学士に嫁いだという知らせもあり、嫉妬にかられた。
久子は、性格が勝気で、自己顕示欲が強かったらしい。
能力のある自分が、こんな片田舎で悶々と過ごすのがやりきれなかった。
第一子を身ごもり、夫の実家で出産するのが夫の家のしきたりとかで、愛知の矢作にやられた。
その山奥で義父母と暮らしながら、長女昌子を養育した。
しばらくして昌子が落ち着いたので、小倉へ久子は娘を連れて帰っていった。
相変わらず夫は中学教師として仕事に追われ、展覧会に絵を出すつもりもないらしい。
あの親友の夫が理学博士になり、俸給も上がったという手紙をもらい、ますます、久子は嫉妬に打ちひしがれた。
行き詰まった夫婦はキリスト教に入信した。夫は気が進まないようだったが、結局、信者たちにほだされて、入信を決めた。
それとても、この夫婦を救済する手立てにはならなかったらしい。

大正五年、実兄が放浪の旅から小倉の久子の家に転がり込んできた。
その荷物の中に「ホトトギス」が数冊あった。
久子はむさぼるようにその俳句雑誌を読みふけった。
「これだ。私の生きる道は俳句だ」そう思ったのだろう。
久子二十七歳、第二子を孕んでいたころだった。
冷めた夫婦でも、子作りは盛んにやっていたらしい。
久子はけっこう男好きのする顔立ちで、夫も性欲にかられて久子を抱いたのだろう。
与謝野晶子や津田梅子、平塚らいてうなどの独り立ちした女にもあこがれていた久子が、夫と別れなかったのは、プライドがあったからだろうか、それとも夫のセックスがよかったからだろうか?
生涯腎臓を患って、最期は命取りになる久子だったが、もとは性感染症ではなかっただろうか?
※幼いころから台湾や琉球などの水の悪いところで育ったから腎臓が悪かったのだろうか?

久子は「久女」と号し、「ホトトギス」へ投句し、入選するほどの実力をつけ、連載記事をも依頼されるほどになる。
主宰高浜虚子にあこがれ、また虚子に認められ、俳壇に彗星のごとく登場した杉田久女だった。
ただ、その我の強さ、嫉妬深さは久女を窮地に陥れることになる。
虚子が他の女流俳人を誉めると、噛みついた。
無数の抗議の手紙を発作的に書いて出し、後の手紙で陳謝する始末で、虚子もほとほと困り果てたらしい。
「ホトトギス」の同人だった久女が、ついに除名処分になってしまうのだった。

終戦の翌年、久子は戦時中の栄養不良によってとうとう腎臓を壊してしまい、福岡の病院でひっそりと亡くなる。
死に目に間に合わなかった娘の昌子に「私が死んだら句集を出しておくれ」と告げて旅立ったという。
久子が自身の句集を出すにあたり、序文を虚子に再三依頼していたが成らなかったことを、今際(いまわ)の時まで苦にしていたようだった。
久子の「ホトトギス」同人除名となにか関係があるのかもしれなかった。
句集は娘によって、久子の死後に出版されたらしい。

椅子移す 音手荒さよ 夜半の秋 (久女)

これは病気療養中に看護婦が取った態度を詠んだものだそうだ。
久女は看護婦に、いろいろ辛く当たったらしく、険悪な関係になっている。

汝に比して 血なき野菊ぞ好ましき (久女)

この「汝」は看護婦である。「窓辺に活けた野菊に血は通っていないが、野菊の方があなたより優しいよ」となじっている。

芋の如(ごと) 肥えて血うすき汝かな (久女)
白豚や 秋日に透いて耳血色 (久女)

これも酷い…太った看護婦が優しくないと罵っているのだ。

ひろげ干す 菊かんばしく南縁 (久女)

これは久女が最初のころの作で、虚子先生に自宅の菊花を干して枕に詰めて進呈した時の句。
こんな枕をもらった虚子はどう思っただろう?
「わたしと思って抱いて寝て」とでも言うのだろうか?
烈婦のごとく久女は、俳句で師に迫るのだった。

足袋つぐや ノラともならず教師妻 (久女)

この句が入選するも、夫は生活を暴露されたようで気まずく感じ、さらに夫婦仲が冷え込むことになる。
もちろん「ノラ」とはイプセンの『人形の家』のヒロインである。

朝顔や 濁り初めたる 市の空 (久女)

(こだま)して山ほととぎす ほしいまま (久女)

このような美しい句もいくつも詠んでおり、やはり杉田久女は類稀なる女流俳人であることには違いない。
(参考文献:前掲書)