モンテーニュは『エセ―(随想録)』の第一巻第九章に「嘘つきについて」と題して、私の耳には「痛い」ことを書いてくれている。
私は、このブログで再三、「私は嘘つきである」と吐露しているのでご覧になった方も多かろう。
このブログ自体、どこまで真実なのか、虚構なのかわかりはしない。
書いてる本人も健忘症の気があるので、「北杜夫」ばりにいい加減な内容になっているだろう。
それはさておき、モンテーニュの言う嘘には「嘘を言う(書く)」ことと「嘘をつく」ことの二種類があって、「嘘を言う」ことは知識や記憶があいまいで、発言者自身は本当のことと信じて真実でないことを発言することを言い、「嘘をつく」のは発言者は明らかに嘘であると知って真実でないことを言うこと示しているという。
これはなかなか含蓄のある指摘であり、私はどうやら認識が甘かったようだ。
ヨーロッパ哲学では、このような嘘の定義がしっかりしているから、真実を抽出する、あるいは真偽をより分ける作業に冷徹なのだと感じ入った。

私は、つまるところ「嘘つき」であり、モンテーニュが蛇蝎(だかつ)の如く嫌う人種らしい。
恥じ入るより、「モンテーニュさんありがとう」という気持ちだ。

モンテーニュは自分をへりくだって、「物覚えが悪いから、いい加減なことを言ってしまう」と述べている。
また友人との約束などを、よく忘れてすっぽかしたりしたようだ。
つまり彼は「嘘つき」ではないが「嘘を言う」ことはあったらしい。
そこに真摯な反省が見て取れる。

親は子供のつく嘘に対して、厳しく叱らねばならないと説き、教育の中でも「嘘をつかせない」また「嘘を強情に言い張る」という罪深さを子供に知らしめすことは大事なことだと説く。
いやはや、耳が痛い。

私は、そもそも嘘つきの家庭に育った。
両親は軽い嘘を、会話の潤いに添えた。
私もそれを真似て、いろんな嘘を考案した。
嘘はバレなければ、真実になるという虚妄を、信じていたし、今もどこかで信じている。
科学者の末席を汚す立場になっても、「かわいい嘘」をつきたおした。
ただ、自分には嘘をつかなかった。
なぜなら、それは無駄であり、だれにもわからないのに嘘をつく意義を認めなかったからだ。
嘘は他人に対してついてこそ、表現してこそ意味がある。
何とも身勝手極まりない言い訳だけれど、そのように思っていた。

私の中では、モンテーニュのように「嘘を言う」ことと「嘘をつく」ことは分離されていなかったので、今もなお、嘘を言い、嘘を書き、嘘をついているのではなかろうか?

一方で私は、科学は嘘をつかないということを、嫌というほど知っている。
科学で嘘をつこうとすると、たちまち破綻し、私より賢い人に見破られる。
その結果「科学では嘘をつけない」という結論に達した。
「ごまかし」「偽証」みんな、見破られる。
だから法廷では「黙秘」が最も効果的だ。
法廷で「嘘をつく」ことは自殺行為だ。
「何も言うな」ということが自身を守ることになる。

SFもどこか破綻の要素があり、そこを見つけるのが読者の楽しみでもある。
嘘ではなくても「推論」で物を言うことは科学者に許されている。
今の科学のレベルではどうしても「推し量る」しかないことは、たくさんある。
これを「推論」と断って自由に発言することは、科学の進歩に欠かせない。

モンテーニュの『エセ―』は、やはり一生に一度は紐解くべき書物だと思った。