片岡仁左衛門が南座(京都市)の顔見世興行で「仮名手本忠臣蔵」を演じられるそうで、師走ともなると、町のあちこちで「忠臣蔵」関連の行事がある。
まさに12月14日に、山科では大石内蔵助ゆかりの「大石神社」の祭で、毘沙門堂から大石神社まで義士に扮した行列が練り歩く「義士まつり」がある。

今日の「日曜美術館」でも、浮世絵からみる「仮名手本忠臣蔵」を紹介していたが、いかに元禄時代の江戸町民が「赤穂浪士」を讃えていたかがうかがえる。
松の廊下での刃傷事件に端を発する「赤穂事件」と歴史家が総括する史実をもとにした物語だが、その事実をそのまま浄瑠璃や歌舞伎で演じることは幕府より禁じられていたそうだ。

ゆえに浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」は鎌倉時代に時代背景を移し、鎌倉幕府内での刃傷事件として書き換えられた。
浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が「塩冶判官(えんやほうがん)」、吉良上野介(きらこうずけのすけ)を「高師直(こうのもろなお)」と役柄も変え、事件の発端も、狒々爺の高師直が、塩冶の美人妻に横恋慕して付文をしたためるという不倫騒動になっている。
「高師直」は江戸幕府の典礼職「高家(こうけ)」をもじっているのだろう。浅野内匠頭が朝廷様の饗応係を吉良上野介(高家肝煎:こうけきもいり)から仰せつかって、浅野が勝手わからぬゆえ、吉良に教示をしつこく乞うたため、吉良の逆鱗に触れて、浅野をことあるごとに罵倒したことから、浅野の堪忍袋の緒が切れて、とうとう江戸城内は松の廊下で抜刀して吉良を切りつけたと伝えられる(元禄14年春)。
そばに居合わせた旗本の梶川頼照(梶川与惣兵衛)が、浅野を羽交い絞めにして「殿中でござるぞ、浅野殿!」と止め、吉良は額に傷を負っただけで済んだが、この事件で、じきに将軍綱吉から沙汰があり、浅野内匠頭長矩(ながのり)は即日切腹、浅野家(赤穂藩)御取つぶし、赤穂城開城(明け渡し)となった。
吉良上野介は浅野内匠頭から切りつけられても、自らは抜刀せず、応戦しなかったことで浅野内匠頭一人の暴行と判じられ、また高齢でもあった吉良は不問(ただし高家肝煎は辞職)となった。
将軍家と吉良家が姻戚関係にあったことも、この判断に有利に働いたと考えられる。
このことに対し、江戸民衆の間では、幕府の沙汰が厳しすぎると批判も起こったという。
同時に、吉良上野介への庶民の風当たりも強くなり、上野介は隠居せざるを得なくなった。
当ブログで以前に取り上げた落語『徂徠豆腐』でもそれがうかがえる。荻生徂徠(おぎゅうそらい)という幕府の、お抱え儒学者は、浅野内匠頭や赤穂義士たちへの将軍の沙汰に少なからず助言を与えていたらしい。


『仮名手本忠臣蔵』は浄瑠璃が初演だったが、のちに歌舞伎でも演じられ、「忠臣蔵」を演(や)れば「大入り」が取れ、必ず「当たる」ということから「独参湯(どくじんとう)」というよく効く漢方薬になぞらえられたりもした。

森田検索に「なんで忠臣蔵って、蔵がつくんや?」と訊いたら、彼は「よく訊いてくれました」とひざを叩き、
「実は定説がないんですが、ひとつに「蔵いっぱいの忠臣」という意味と、もちろん「大石内蔵助」の「蔵」を掛けているんだという説があります」
と解説してくれた。

私は「忠臣蔵」につき、あまり知識を持ち合わせていない。
NHK大河ドラマの『元禄繚乱』(故中村勘九郎主演)を観たくらいである。
勘九郎さんが好きで観ていただけで、松の廊下の段、内匠頭切腹の段、赤穂城取つぶし(開城)と大石内蔵助の決断と潜伏の段、四十七士の血盟の段、12月14日の討ち入りの段、上杉家(吉良上野介の実子、上杉綱憲)預かりとなり沙汰待ちと四十七士の切腹の段(元禄16年2月4日)が、やっと順を追って頭に入った、
それまで、大人たちの話を聞いていただけでは、前後入り乱れて、刃傷沙汰はいつ?、討ち入りは雪の中だったらしいけど、ああ、12月14日がそうか?
城を追われた、赤穂藩老中筆頭大石内蔵助は作戦を練りに練った。
彼は山科に家族と隠棲し、京都を往復して、茶屋遊びをして仇討の企図をひた隠しにした。
赤穂藩江戸屋敷からも出た赤穂藩家臣は、早く主君の仇を討ちたく「急進派」を形成した。
大石の、のらくらした態度に業を煮やしていたのである。
ついに、大石内蔵助は討ち入りを延期しようと言い出す(山科会議)。
つまり、赤穂藩再興の途もないわけではなく、浅野内匠頭の一子、浅野大学を担ぎ上げる一派もあったので、最低でも浅野内匠頭の三回忌が明けるまで討ち入りを伸ばそうという考えだった。
幕府は浅野大学に閉門蟄居を命じて、良からぬ動きを監視していたが、その年季の明けるのが内匠頭三回忌を経た時だということだった。
大石内蔵助は、浅野大学の閉門が解かれたときに改めて大学の許可を得て討ち入りを実行する算段だったのだが、江戸急進派赤穂浪士は納得しない。
「何をいまさら」である。
結局、浅野大学は閉門のまま、大石たち赤穂浪士四十七士はその年の暮れ(元禄十五年)、12月14日に江戸の吉良邸に突入して、吉良上野介の首級を上げるのだった。
山鹿流の陣太鼓の鳴り響く払暁、浪士たちは、さくさくと雪を踏みながら、「エイエイオー」と鬨(とき)の声を上げたのだった…
助太刀を申し出た宝蔵院流槍術免許皆伝俵星玄蕃(たわらぼしげんば:浪曲歌謡三波春夫)は内蔵助に丁重に断られるも、「討ち入りの邪魔立てするものはこの玄蕃が通さぬ」と槍を手に橋のたもとに仁王立ちして、赤穂浪士たちに本懐を遂げさせた…
槍は錆びても、この名は錆びぬ 男玄蕃の心意気ぃ~

「命惜しむな、名をこそ惜しめ」と、かつて蕎麦屋に身をやつして潜伏していた浪士の杉野十平次に、玄蕃が檄を飛ばす場面…
泣けます!
森田に教わって、何度も聞きました。
聞き惚れました。私。

これほどにまで、巷間語り継がれることになったのは、江戸庶民がいかに、この事件について詳しく知っていたか、興味を抱いていたかを物語っている。
かわら版が書き立て、討ち入りの様子が絵に刷られ、演じられ、まさに見て来たように表現されているのである。
実際、討ち入りの時は、吉良邸にかなりの人だかりがあったとか。
情報が漏れていたのかもしれない。
「本懐を遂げさせてあげたい」という庶民の気持ちが、静かに見守るということになったのだろうか?

あら楽(たのし)や 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし (大石内蔵助が主君長矩の墓前にしたためた和歌)
極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人 (大石内蔵助の辞世)