NHK「日曜美術館」でフェルメールを特集していた。
今、東京に9点のフェルメール作品が来日しているんだね。
観たいものだが、時間が許さない。
だからテレビで取り上げてくれるとありがたい。

生物学者の福岡伸一氏や作家平野啓一郎氏、俳優のイッセー尾形氏、タレントの篠原ともえなどを交えてフェルメールの作品の前で語ってもらうという趣向で興味深かった。
これほど人を魅了してやまない画家の正体が謎に包まれていることに、私なども想像を掻き立てられるのだった。
フェルメールの生きた時代は、彼の生国オランダが隆盛を極めていたころだった。
画家の仕事も増え、特に貴族や金持ちのオーダーメイド作品を手掛けるだけでなく、既製品として絵を売ることができ始めたころだとも言われる。
つまり、庶民に余裕ができ、店舗で売っている絵を買い求める人が増えてきたわけである。
17世紀、オランダがスペインから独立して自由貿易で世界を市場に活躍することで、オランダの民も肥えていったのだった。

フェルメールは画業のテーマを市井の人々に移し、小さな作品に仕立てて庶民の部屋を飾る一品として絵を製作し販売したらしい。
一段と目を引く「フェルメールブルー」を使い、布のマチエール(質感)も忠実に、手に取ればそれとわかるほどの表現をしたのである。
さながら「ドールハウス」を覗き見るような楽しさがあふれ、また解釈を何通りにでもできそうな人物の表情と調度品を描きこんでいる。
深読みすればするほど、無限に見る者をその世界に没入させる力を持っている。
福岡氏によればフェルメールの絵は客観的に真実を描き、またミルクを注ぐ女の、そのミルクの一筋が動画のように永遠に動いているように見えるところに時間の幅を一枚の絵にしている巧みさがあると指摘する。

動画を残す手段のなかった時代に、限りなく動画に近い方法で静止画像に切り取ったフェルメールは、当時も今もある種の凄みを感じさせる。
画家と言うものは、自分で見て感じたものしか表現しえない。
とすれば、フェルメールは光も時間もなにもかも知り尽くして一枚の絵に描きこんんだのだと言える。
写真はすべてを撮りつくすが、絵は必ず画家の脳を経由して描かれるものだからだ。

このころ科学の世界ではニュートンやライプニッツが出て、光や微積分の考え方に人類が到達したころでもあった。
フェルメールは、流れる画像が、静止画像の積み重ねであることに気づいていたのではないかと、いわゆるアニメーションの手法に到達していたのではないかと私は思う。
すると区分求積法や極限の考え方、つまりは微積分を絵で実践した画家がフェルメールだと言える。

フェルメールの絵には光の巧みな描き方が、だれにも感じられると思う。
光と影はフェルメールの少し先輩になるレンブラントが得意としたものだ。
レンブラントはしかし、劇場型の光の用い方であり、端的に言えば「スポットライト」を絵の主人公に当てるという手法であり、フェルメールは外からの自然光、窓越しの、あるいは反射の間接光を巧みに被写体に当てて、その自然な表情を醸し出している。
光の捉え方がより一層、真実を露(あらわ)にする手法として描かれているのだった。
光の反射によってその物の質感をわれわれに知らせてくれる。
硬いか軟らかいか、温かいか冷たいかまでもフェルメールは知らせてくれるのだ。
太陽光は一般に七色にプリズムなどで分光されるが、反射光は吸収光と透過光を差っ引いた光が目に届いてその当たった物質特有の質感を見る者の網膜に返す。
ガラスを通した光は屈折光、影は回折光として表現できる。
このことがニュートンによって「光学」という書物に著され、科学的に光を表現することができた。
しかしフェルメールは難しい理論などものともせず、絵筆でそれを描いて見せた。
画家は、もしかしたら科学者よりもいちはやくそのことに気づいていた人々なのかもしれない。
日本の「鳥獣戯画」や葛飾北斎の作品を見てもそう思わずにはいられない。

フェルメールを一度、生(なま)で観てみたいものだ。