三式戦闘機「飛燕」は私の知る限り、失敗作だと思っている。
それは川崎航空機の主任技師土井武夫さんや副主任の大和田信さんのせいではない。
ひとえに、日本の航空機生産能力の低さにあった。

陸軍の試作機番号でキー60とキ-61がのちの「飛燕」となるわけだが、正確には「キ-61」が飛燕の試作番号である。
しかし、キ-60なしにはキ-61はありえなかったことから、あえてキ-60も飛燕の前駆とした。
それほど液冷式のエンジンを搭載した鋭利な機体はこれまでの日本の戦闘機にはなかったものだった。
「斬新」とは飛燕に対して使う言葉だ。

ではどうして「失敗作」と思うのか?
確かに、試作段階での速度記録などは他の戦闘機の追随を許さないほどの時速600㎞近い値を叩き出していた。
とはいえ、試作機は防弾設備(燃料タンク内のゴムライニング)や予備燃料タンクのない、状態の良い機体であったから出せた記録であり、実機のように防弾設備を備え、予備燃料タンクも満タンにしての装備では、まったく速度が出なかった。
※飛燕は胴体内(取り外し可能)と翼内に燃料タンクを持ち合計820リットルの燃料を搭載でき、落下増槽は両翼下に二つずつ合計200リットルを追加できたので、その航続距離は3000㎞程度飛べた。実戦では軽快性重視で胴体内タンクを除いていたこともあったらしく、航続距離はもっと少なかったらしい。

ダイムラーベンツDB-601のコピーであるハー40エンジンは、液冷式のため冷却液も積んでいて、そのクーラーやポンプも必要となることから空冷星形エンジンより重い。
さらに悪いことに、ハー40エンジンの整備は難しく、故障も多発し、燃費も悪くなり、南方戦線での物資の乏しい基地では十分な整備もできず、思ったより戦果がなかった。

和製メッサーシュミットと最初はもてはやされ、期待もされたが、米軍にはカモにされた「飛燕」だった。

1941年12月8日に山本五十六司令長官率いる連合艦隊によって真珠湾攻撃が敢行され、日本はその勝利に沸いた。
続いて、わが海軍はマレー沖での海戦でも快勝し、英海軍の主力戦艦二隻を撃沈したのである。
山下奉文(ともゆき)陸軍大将は英軍を降参させ「マレーの虎」の異名をほしいままにした。

同じころ、土井技師らの設計したキー61の試験飛行がおこなわれ、時速590㎞を記録したのである。
このとき、ドイツから購入したメッサーシュミットBf-109E7と比較試験し、メッサーを上回る成績をおさめた。
ただし、陸軍はすぐには採用の良い返事をしてくれなかった。
やはり、陸軍航空本部が星型空冷エンジンに傾斜していたことと、液冷式エンジンの信頼性不安がぬぐえていなかったからであろう。
陸軍の懸念はその後現実となる。

1942年の秋、福生(ふっさ)の飛行場で戦闘機研究会という名称の陸海および舶来購入機、鹵獲機の性能比較飛行会が開催された。そこでの飛燕の成績はすこぶる良く、カーチスP-40やハリケーン、メッサーシュミットBf-109などと比較しても飛燕が勝った。

1943年(昭和十八年)に三式戦闘機「飛燕」としてキー61は、ようやく採用となった。
南方の戦局も悪くなっていたころであり、「飛燕」の参戦が急がれた。
しかし、先にも述べたように、ハ-40の整備不良、初期不良が続出で、思った戦果を挙げられなかった。
ハ-40の上昇力不足は致命的で、米軍機の高高度性能が飛躍的に良くなっていることから、とても飛燕では追いつけない。
防空も護衛も飛燕には重荷になっていた。
さらにハ-40の生産性が低く、供給が追い付かないという根本的な欠点も露呈した。
陸軍から当初「重戦闘機」として計画された「飛燕」だったが20㎜機関砲の開発が陸軍では遅れており、火器は貧弱にならざるをえず、機首の12.7㎜機関砲二門と、翼の7.7㎜固定機関銃二丁しかなかった。
※陸軍では12.7㎜口径以上を機関砲(ホー103など)、7.7㎜口径を機関銃として海軍と区別していた。

ハ-40の改良型でハ-140が急遽製造ラインに乗ったが、これまた生産性が悪く、機体のほうが先に出来上がっているのに、のせるエンジンがない「首無し飛燕」が工場にとどまっているという事態が生じたのである。
土井技師はやむなく、飛燕に星形空冷エンジンを搭載する改良を加えることにし、それが「五式戦闘機」として採用となったのである。
中島飛行機の四式戦闘機「疾風(はやて)」に続く、陸軍最後の制式戦闘機だったが活躍する間もなく終戦となった。

私が戦後、米軍のパイロットだったロバート・ニコラス少尉から訊いた話では「Tony(飛燕の蔑称)」はイタリアのマッキMc-202と間違えたと言っていた。
そんなはずはないので、結局、日本軍の新しい戦闘機であることが後日わかったと言っていた。
シルエットはたしかにMc-202に似ている。またキャノピーがBf-109 にも似ていた。

今、立川の飛行場では「首無し飛燕」がまさにスクラップにされようとしていた。
(終わり)