ムッシモールによる中毒か・・・
この化合物はある種のキノコに存在する。
日本ならベニテングタケだろうか。

同僚の濱野真之(はまのまさゆき)が自宅で不審な死を遂げた。
警察に呼ばれ何度も同じことを訊かれた。
あたしと真之とは肉の関係があった。
しかし、それは二年も前のことだった。
真之は年下のポスドク、安西紀子に走ったためにあたしから関係を清算したのだった。
「だから恨んでいるのだろう?」と警察はしつこかった。

あたしは、白衣のポケットからキノコ図鑑を取り出した。
あたしの上司の佐川仁(ひとし)教授らが著したコンサイス図鑑だった。

あたしは、本学の薬学部に籍を置いているけれど、本学出身者ではない。
まったくの「外様(とざま)」ポスドクだった。
研究室の院生はみんな学部から上がってきた人たちで、あたしは肩身が狭かった。
とはいえ、あからさまにあたしを蔑(ないがし)ろにはしない。
「科学の世界では、親藩も譜代も外様もないのだ」
佐川先生はあたしの髪を撫でながらやさしく慰めてくれた。
あたしだって、そう信じたかった。

ムッシモールはイボテン酸から誘導される揮発性の高い物質だ。
イボテン酸は空気中で容易に脱炭酸してムッシモールに変化するのよ。
だからベニテングタケとイボテン酸は切っても切れない関係なわけだ。
イボテン酸ほど、キノコの研究者の間でポピュラーな化合物はない。
毒キノコ成分の筆頭だから。

あたしも口にしたことがあるけれど、とってもおいしいのよ。
「うま味」成分って言うのかしら、そうそう、グルタミン酸塩のような、それをもっと強くしたような味。
グルタミン酸類似構造から、味蕾(みらい)に作用してうま味を感じるの。
少々ならば食べても大丈夫だというのは佐川先生から教わった。
「ベニテングタケはな、ハエ殺しにも使われるんや」
先生はそう言って、ニタリと笑った。
今も覚えている。

イボテン酸はハエにとって神経を麻痺させる毒になると言われている。
田舎の年寄りなどに話を聞けば、昔からベニテングタケをハエ取りに使っていたことを良く知っているものだ。
それほど当たり前の生活の知恵なのだ。

話題はしかし、ムッシモールである。
このものは、人の脳に作用して、活力を奪う。
少量ならば、躁鬱(そううつ)を繰り返し錯乱し始める、大量ならば昏睡する。
脳内活性物質のγアミノ酪酸(GABA)受容体をムッシモールが先回りして塞いでしまうからだと言われる。
GABAが働かないと脳の活性が著しく低下するのはよく知られているから。

イボテン酸もムッシモールも毒物には違いないけど、死に至るほどのことはない。
適量を使うと、精神興奮を持続させてトリップできるから、昔は憑依(ひょうい)効果をねらってシャーマンになるような用途にも使われてたそうだ。

真之はたぶん、安西紀子に殺されたんだと思うけれど、それがベニテングタケが原因だとは思われなかった。
もっとよく調べる必要があるのに・・・
あたしは、捜査当局のずさんさを指摘してやりたかった。
あたしはたぶん、アマトキシン(アマニチン)だと思っている。
彼女なら手に入れられるからだ。
タマゴテングタケやドクツルタケに含まれる毒素で、イボテン酸なんかより数段強いタンパク毒なのだから。

紀子は嫉妬深い女で、自分によって来る男は拒まないけれど、離れていく男を容赦しないのだ。
頭がいい上に、狡猾、淫猥・・・
佐川先生の家庭も崩壊させた悪女なのだから。

と、ネットで知った「イボテン酸」だけでこんだけ妄想が広がりました。
ここに出てこられた方々はすべてフィクションですよ。
同姓同名で心当たりのある方はご容赦くださいね。
あたしの名刺入れから適当に人名を取らしていただきましたぁ。
今日はヒマなんよ。
暑いし・・・