あたしは、普段着ないダークスーツに身を包んで、順番を待っている。
大学院の口頭試問の日なのだ。

教職課程の口頭試問では、あまりに緊張して、頭が真っ白になり、高校生でも答えられるような愚問にしどろもどろになって失態を演じてしまったことがある。

前の男の子が汗だくで、部屋から出て来、反対にあたしが呼ばれた。

「横山…ひさこさんとお読みするのかな?」
「あ、いえ、なおこと申します」
「失礼。では、横山さん、試問をはじめます。私(わたくし)は臨界物性研究所の石田宏明と言います。よろしく」
「よろしくお願い致します」
あたしは一礼して着席した。
石田教授の横に、あたしの担当教授の漆原先生が柔和な面もちで座っていらっしゃったので、あたしは安心した。

「失礼ながら、たいへん基本的なことを伺うこともありますが、ご了承くださいよ」
「はい」
「物質の三態を、横山さん、端的に説明してください」
これなら、大丈夫だ。
「えっと、固体、液体、気体の三つの状態をまとめて物質の三態と呼んでいます」
「なるほど・・・では「相」というのは、どう説明しますか?」
「相は、その内部の性質が、どこをとってもまったく均質で、ほかの均質な部分と明らかな界面で区別されている状態といいますか、物質をいいます」
「ほう、じゃあ混合物はどうなります?」
「混合物は、均質である限り、ひとつの相と考えます」
「すると、横山さんの相の捉え方で先ほどの物質の三態を言い換えてみてください」
うわぁ、ネチネチと攻めはるなぁ…トホホだ。
「えっとですね…三態と言いますのは、一つの物質が取り得る、三つの相のことを言うのだと思います」
「わかりました。結構です」
いいのかよ…これで。
あたしは、お尻に汗をかいていた。
「では、横山さん、臨界とはどんな状態ですか?」
とうとう来た。この先生は「臨界」の専門家なのだ。
「ある相と別の相を隔てる界面には明確な境界がありますが、臨界ではそのような境界が消滅し、隣接する相の状態の区別が出来ない状態なのだと理解しています」
「それは三重点とは違うのですか?」
「三重点は、物質の三態が共存するという意味ですので、境界の一部をなす点なので、境界は存在しますから臨界とは異なると思います」
「わかりました。では水を例にとって、お聞きします」
「はい」
「水の三重点の温度が、氷の融点とはわずかにずれているのは、横山さんならご存知だと思いますが、それはなぜですかね」
う~ん、なんでだったっけ?
あたしは焦ってきた。
「たしか…氷の融点は1気圧で摂氏0度なのに、水は摂氏0.01度、0.006気圧で三重点に達するんでしたね」
「そうです。よく覚えていますね」
「縦軸に圧力、横軸に温度を取った水の状態図では、昇華線と融解線、蒸発線が三重点で交わるのですが、おそらくですよ、水分子の水素結合力が大きいことから、そのズレが生じるんだと思います」
「結構です。では、いまおっしゃった水の状態図からいろんな水の性質が読み取れるわけですが、臨界も含めて考えられることを述べてみてください」
うわ、何から答えたらええんや…
「まずですね、水は三重点以下の温度と圧力で液体の状態を保てません。蒸発線の途中、摂氏百度、1気圧で、お馴染みの沸点を通過し、蒸発線は摂氏374度、218気圧で途切れます。この点を水の臨界点と言います」
「昇華の説明もお願いします」
「あ、ああ…昇華線を境にして、固体から直接気体になることを昇華といい、その逆を凝結と言いますが…これでいいですか?」
「結構です」
「水の固相について伺います。氷は水に浮きますが、沈む氷を作ることはできますか?」
あたしは、そういうことを聞いたことがあった。
「氷と言いましても、さまざまな形態が知られておりまして、あたしは、詳しくは知らないのですが、少なくとも十種類は氷の種類があったと記憶しています。これらは水分子の水素結合の角度が109.5度の六方晶系がもっともシンプルで、雪の結晶が六角形をなす根拠にもなっています」
「なるほど・・・」
「で、この結晶型がもっとも空間が多く、密度が小さいために、水に浮いてしまうわけですが、これは水の配位数よりも氷の配位数が小さいのです。空間ですから圧力をかけてやれば、密度は高まり、水より重い氷を作ることが可能であると、あたしは思います」
あたしは知っていることを早口でまくし立てた。
「よくわかりました。では、横山さん、水と氷の密度の話題が出ましたので、実例を交えてそのエビデンスをお話ください」
エビデンスだと?はぁぁ…長いなしかし。
さっきの男の子は、えらい早く終わって出て来よったのに。

そういえば教育実習で生徒たちに池の氷の話をしたっけ。
「こんな例はどうでしょうか。淡水の池の水が冬に凍りますが、必ず池の表面から凍ります。これは水の比熱容量が大きいことが一つと、水の比重、つまり密度が摂氏4度付近で、もっとも大きくなることが関連しています」
「ほほう。続けてください」
教授は、顎の下を両手で支えるようにして、話を聞こうじゃないかという態度になった。
「つまりですね、外気が氷点下の池を観察しますと、摂氏4度の水はそれより高い温度の水より重いわけですから、対流で底に向かって沈んでいくのです。すると、比重の軽い、いくぶん高い温度の水は上に上がりますが、外気が氷点下ですので、また池の表面の高い温度の水は摂氏4度に冷やされ下降し、この撹拌現象で、だんだんと池の水の表面がもっとも温度の低い摂氏約4度の水で占められます」
「うんうん」
大きくうなずきながら、石田教授が相好を崩す。
「外気は、もとより氷点下ですから、温度平衡になった表面の摂氏約4度の水の温度は、ついに氷点に達して、そこから凍るので、いつも池の表面から凍るわけです」
「さっき、横山さんは、水の比熱容量が大きい点を挙げられました。そのことと、今のお話の関連はどうですか?」
「そうですね。水の比熱容量が大きいということは、温まりにくいが、一旦温まると今度は冷えにくいという性質に裏付けられます」
「その原因としてどんなことが考えられますかね」
「おそらく、水素結合の豊富なことに関連すると思われます。エタノールも水素結合を発揮する水酸基がありますが、水の半分ですので、やはり比熱容量も半分くらいなんですよ」
「鉄などの金属は、比熱容量が小さいですね。あれはどう説明しますか?」
「自由電子の存在です。金属結合は自由電子の振る舞いで強固に金属原子がまとまっています。自由電子は電子の移動が自由ですから、熱の伝導も早いのです」
「では、水が冷めにくいということを科学的に説明してみてください」
「水を摂氏1度上げるのに、大きな熱量がいるということにほかなりません」
「そうですね。水は摂氏100度で沸騰しますが、そのときの気化熱は水1キログラム当たり2000kJ以上も必要です。横山さんの説明は、大変簡潔明瞭でした。ここからは雑談ですので、気をはらずにお答えくださって結構です」
そう言って、教授は机の上の紙をまとめて横によけて、手のひらを組んだ。
漆原先生も優しいメガネ越しの笑みを浮かべている。
「水素結合は、さまざまな特異な性質を水に与えます。そのことは、今、あなたが説明してくださった中にほぼ入っていました。水のファンデルワールス半径と各原子の電気陰性度から水素結合を論じてみてくださいませんか?」
こりゃまた、深い質問だなぁ。

あたしの脳裏に水の分子がポンと浮かんだ。
V字型の水分子は中心の酸素原子から二本の腕が伸びて水素とそれぞれつながっている。
その中心角が104.5度と、化学便覧などにはあるはずだ。
数学をやった人なら正四面体の重心から各頂点のなす角が109.5度だと知っているはずだ。
水の中心角とほぼ近い。
すると、水分子は水素結合でいくつかつながり、きれいな六方晶系になる根拠となっている。

一方で、酸素原子と水素原子に注目すると、酸素原子は電気陰性度が大きく、負に帯電し、水素原子は正に帯電する。
つまり、水は異方性が強い分子、電子の分布が偏った極性の液体になりやすい。
この強力な酸素の電気陰性度が、つまるところ強い水素結合を生じさせる原因となっているのである。
だから、水は「極性溶媒」として、いろいろなものを溶かし、また電離させ、高い表面張力を与える。
イオン水となるのもその性質の現れである。
この性質は、近似の硫化水素とは全く異なっている。
周期表で酸素族の硫黄の電気陰性度は酸素ほど大きくなく、よって硫化水素の水素結合も強くない。
だからか、硫化水素は常温では気体で存在する。

かようなことを、石田教授の前で、あたしはペラペラしゃべったような気がする。

そして晴れて、臨界物性研究所に入所することができたのだった。
遠い昔の話である。
今日は、恩師漆原先生の命日だった。