秋元不死夫(あきもとふじお)という俳人をご存知の方は、たいそう俳壇に詳しい方だと推察します。
戦前~戦後にかけて細々と、しかし信念を貫いて俳句で時代と戦った、その名の通り「不死」を誓った男でした。
※本名が「不二雄」です。

降る雪に 胸飾られて 捕へらる (不死夫)

「昭和十六年二月四日未明、俳句事件にて検挙され、横浜山手警察署に留置さる」の前書きがある句です。
この日から二年余りも獄中生活を余儀なくされるのでした。
「治安維持法違反」という世にも恐ろしい罪で囚われた人は不死夫以外にもたくさんいました。
拷問、自白の強要、およそ、想像のかぎりを尽くして官憲は彼らを責め立て、偏向した思想を矯正させたのです。
不死夫も「左翼思想からの転向を誓う」と無理やり書かされたと戦後に語っていました。
当時、彼は「東 京三(ひがしきょうぞう)」という俳号を使って作句していたそうです。
つまり彼は反戦や平和を希求する俳句を連綿とつづっており、それが引っ張られた原因だったのです。
二年間の獄中生活のうちに、彼の弟は自死してしまいます。
戦争も末期、昭和十八年に保釈されても職に就くことはできず、頼りの恩師、島田青峰も亡くなってしまいます。
不死夫は終戦まで、戦禍に逃げまどいながらも、日本の社会と戦わねばならなかった。
その孤独感、無念さはいかほどのものだったでしょう?

戦争が終わり、日本に平和が訪れたときの句があります(昭和二十一年発表)。

鳥わたる こきこきこきと 罐切れば (不死夫)

罐詰を罐切りで切る様を詠んだ句ですが、当時、配給でも手に入りにくい罐詰は貴重品で最高のごちそうだったに相違ない。
それが戦争が終わり、空にも敵機が来ず、渡り鳥が悠々と舞っている。
それを眺めつつ、ごちそうを開ける至福のひと時を切り取ったものだと思います。

彼の句集『瘤(こぶ)』のあとがきを引きます。

生きている、そして善良であったすべての日本人は、こんどの戦争によって、大なり小なり傷をうけた。事を俳人に限って云ってみても、兵隊となり、或は衣食住に窮して、病を得たひともそうだし、またわたしたちのように俳句事件に連坐して、不幸をうけた俳人も亦(また)、そのひとりであった。しかし、わたしのうけた傷痕などは、まだ「瘤」程度のものにすぎない。だが、たとえ瘤であったにせよ、その瘤の痛さと、瘤をこしらえた相手の手は、終生忘れることはできない。(現代仮名遣いにあたしが直しました)


最近の若い人は(といってもあたしくらいの年代らしいが)、妙に「愛国心」だの、「靖国の英霊」だのを簡単に口にする。
彼らは、たいてい「艦これ」とか「ガルパン」で「かっこいい戦争」にかぶれている。
本当の戦争はそんなもんじゃない。
あたしだって、言えた義理じゃないが、戦争が決してかっこいいものではないことぐらいわかっているつもりだ。
「大和ミュージアム」は「靖国」に並ぶ聖地だとか言って憚らない若造を見るにつけ、この国の危うさを思う。
「大和ミュージアム」に展示されている物は、それはそれは貴重なものだ。
しかしそれが戦争肯定になるのはよくない。
反面教師にすべきだ。
もし戦争になったら、第一に戦地へ赴くことになるのは、あなた方、若い世代であることに気づくべきであろう。