薫風の季節だというのに、あたしの心は冴えなかった。
十五歳って、大人なんだろうか?それとも、まだまだ子供なんだろうか?
高等学校という暗い牢獄のような世界に身を置くと、あの屈託のない中学時代が懐かしく思える。
授業はのっけから、置いてけぼりで、凄まじいスピードで進んでいくのだ。
ゴールデンウィークで取り戻さねば、中間考査は、おそらく経験したことのない散々な結果になりそうだから。
市内のあらゆる中学校から集まってきた同級生たちは、みんな仮面をかぶっている。
少なくとも、あたしにはそう見えた。

隣の席の前田敬子という色の黒い子と、最初の友達になれたのは幸いだったのかもしれない。
そうでなければ、まったく口を利かずに一日を過ごさねばならなかっただろう。
前田さんは、三中の出身で、あたしは二中だったから、高校生になって知り合った友でもあった。
実は、二中の出身者はこのクラスでは男子の上村省吾君と佐々木晃君しかいない。
彼らとは、中学時代でもしゃべったこともなかった。
「なぁ、高安さん」
「なぁに?」
あたしは前田さんに呼ばれて彼女のほうを見た。
「リーダー(英語の授業)って、浜村さんから当てられるんやなぁ」
そう、彼女の前の浜村里美さんから順に、前田さん、武藤敏子さんと読まされるはずだった。
「たしか、そうや」
「どこやったっけ」
「二十三ページの、大きな籠が出てくるとこから」
あたしはリーダーの教科書をめくって指した。あたしも昨日、予習はしてあったから。
「ああ、ここか、I bought the basket …ってとこからやな」
リーダーの澤田先生は、かなりのお歳で、英語も日本語も「なまって」いる。
それがおかしい。
「前田さんは、部活やるの?」
「うん、中学からテニスやってきたしぃ、見学しよっかなぁと思ってんねん」
「そっかぁ」
「高安さんは、運動部は嫌い?」
「そやなぁ。中学でも下校部やったしなぁ」
「ははは。下校部かぁ、おもしろいこと言うねんね」
あたしは、まったくの運動音痴というわけではないけれど、小学校でリトルリーグに入っていたとき、あの先輩後輩の上下関係が好かなかった。
だから、中学でも誘われても避けてきた。
あたしは、泳げるし、そこそこ足も速いのだ。
ただ、縛られるのが嫌いだった。

放課後、あたしは自転車通学を許可されていたので、自転車置き場に直行する。
入学と同時に父に自転車を買ってもらった。
それまで、母の買い物用の自転車を共用していたのだった。

「えーっと、この辺に置いたんやけど、あったあった」
みんな無造作に自転車を停めるので、間、間に自転車を詰めてしまって、最初に置いた人が出せなくなる。
「どないしょ、無理やな、ぜんぶのけやんと」
すると、横から、男の子が、
「どれや?この奥のんか?」
と助けてくれた。
「あ、ありがとう…」
「ほんま、みんな、ひとのこと考えんと置くからなぁ」
彼は、どうやら先輩のようだった。
「すみません」
「一年生か?おれは、二年の長谷川や、以後よろしく」
やっとあたしの自転車が動かせるくらいに隙間を開けてくれた。
「あたし、一年四組の高安と言います。どうもありがとうございました」
「ええねん、ええねん。こんなことくらい」
照れながら長谷川さんは、ずいぶん大人びて見えた。一つしか違わないのに。

「おれも帰るとこや。いっしょにどう?」
「は、はい」
あたしは男性にこうやって誘われたことがなかったので、なんだかうれしくなった。
男と女がそろって帰るなんて、中学時代には考えられなかったことだ。
人の目が気になるけれど、だれもそんなことを気にしていないようだった。
あたしたちは自転車を押しながら、校門を出て国道のほうに向かった。
「高安は、クラブせぇへんのか?」
いきなり、呼び捨てである。
先輩だからしょうがないのかもしれないけど、ちょっと馴れ馴れしいなと思った。
「ええ、まだ決めてないんです」
「おれな、科学部に入ってんねん。高安もいっぺん、見においでぇな」
科学部とはどんなことをするんだろう?
「かがくぶ…ですか」
「そう。理科とか嫌い?」
「す、すきです」
あたしはどちらかというと理系の科目が得意だった。
「ほら、ええわ。あした部活があるから、おいで、科学実験室は知ってるやろ?三階の南端(はし)」
「行ってみます」
「たのしいよ。みんな和気あいあいやし。顧問の山本先生は、すっとこどっこいやし」
「すっとこどっこい?」
「ああ、なんか抜けてんねん。めっちゃ難しいこと知ってはるのに、ピンクレディーとキャンディーズの区別もつかへん」
「あはは」
「な、おもろいやろ。ぜったいおいでな」
「はい」
「ほな、おれはこっちやし」
商店街の中に長谷川さんは消えていった。
「ちゃっちゃとした人やな」
あたしは独り言をこぼした。

五月晴れがつらく感じていたはずなのに、今は、なんか清々しい気持ちがする。
男の子って不思議だな。
落ち込んでいた、女の子を元気づけてくれるんだから。

あたしはサドルにまたがり、ペダルを思い切り漕いだ。
「高安尚子、時速百キロでーす!」