アルバムに自分の写真がないということに気づいたのは十二のころだった。
正確には、ある時期以前のあたしの写真がないのだ。
幼稚園に入る前の写真が。
「母さん、あたしの小さいころの写真って、どうしてないの?」
母は、
「あるでしょ?ちゃんと」
「ううん。幼稚園に入る前の、赤ちゃんの頃の写真がない。お友達はみんな、ゆりかごの中の自分の写真とか、乳母車に乗せられている写真とか持ってるのに、あたし、ない」
母は、ひきつったような笑いをつくって、
「カメラがなかったのよ。お父さんが質屋に入れちゃって」
「なにそれ」
「お金を借りるのに、父さんのカメラや時計を質屋さんに預けちゃったのよ。だから写真を撮れなくて、ごめんね、なお子」
「わかった…」
あたしは、納得したわけではなかったけれど、これ以上、母に問うても無駄だと子供心に思っただけだった。
要するに、あたしのそのころの写真は一枚もないということだった。

あたしは、自分の家庭がことさら複雑な事情を抱えていたとは、爪の先ほども疑っていなかった。
それほど、両親はふつうにあたしに接していてくれたし、何でも「普通」だと思っていた。
母はよく「普通が一番なのよ」と、あたしに言い聞かせていたからだ。
父が何の仕事をしているのか、あたしは気にも留めなかったが、毎日、決まった時間に「会社」へ出勤し、決まった時間に帰ってくるものだと認識していた。
ときどき「出張」という泊りがけの仕事に出かけることはあったが、世間一般の父親がそうであったように、あたしは特にそれが「変だ」とは思わなかった。

疑惑があたしの中に育ち始めたのは、中学に上がり「女」の体になりつつあったころだった。
いつだったか、藤の花の盛りのころに授業参観日があって、幼馴染のクラスメイトに「横山のお母さん来てるよ」と教えられ、彼が指さす藤棚の方向にあたしの母を認めた。
「ほんとだ」
「似てないね。お前のほうが美人だぜ」
「はぁ?」
あたしは、秋本信也という口さがない幼馴染の言葉が冗談なのか、本気なのか理解できなかったが、「美人」は置いておくとしても、「似てない」という事実は、あたしも常々思っていたことだったので、少なからず驚いた。
「信ちゃんも、似てないって思うの?」
「ああ、お前のお母さん、目が一重なのに、お前の目はぱっちりしてる」
「何よ、それ」
あたしは赤くなっていたのかもしれない。
「それに髪が、お前は癖っ毛だ」
信也がそんなに、あたしのことを詳しく見ていたなんて…

じゃあ父に似ているかというと、これがまた天地ほど似ていないのだった。

暗雲が心にたれこめ、いっこうに晴れない。
思春期にはありがちなことだと、ものの本には書いてあった。
親と距離を取りたくなる、そういう時期には、親と自分の相違点を気にし、あげくに、自分はよその人間だという妄想が沸き起こることがあるらしい。
あたしは、なるべく気にしないように毎日を過ごした。
「そんな、ばかなことがあるはずがない」
そう思うようにしたのだ。

あたしの家はたいそう古いものだった。
昭和初期に建てられたものだと父から聞いていた。
満州から帰ってきた祖父母がこの地に家を建てて、祖父母が亡くなったときに父が後を継いだのだそうだ。
これには事情があって、もともと父と母は結婚して新潟に住んでいたらしい。
ところが、昭和三十九年(1964年)の6月16日の昼1時を過ぎたころに新潟で大きな地震が起こった。
両親が新居を構えていた新潟県営川岸町団地(アパートとも)は将棋倒しに倒壊し、やむなく東京駒込の父の実家である祖父母のこの家に避難してきたと聞いている。
もちろん、あたしは生まれていたが二歳ぐらいだったのでまったく覚えていない。

その二階を掃除する手伝いをしていたときに、あたしは古びた新聞の切り抜きを綴じた「スクラップブック」を見つけた。
父がそういうことをしていたのだろうか?
開くと、「病院火災で新生児が不明」という記事が切り抜かれていた。
日付は「昭和三十七年八月二十四日」となっている。
焼け出された新生児のうち五人の行方がわからなくなっているという内容だった。
火災はボヤていどのものだったらしく、死者は出ていないが、そのボヤ騒ぎの際に、新生児を拐取した者がいたらしい。
その関連の記事が時系列で台紙に張りつけられていた。
結局、行方不明のまま、事件は迷宮入りの色が濃くなっている。
「はやく赤ちゃんを返して」という悲痛な母親たちの声が載せられていた。
あたしはスクラップブックを閉じた。
「昭和三十七年」と言えば、あたしが生まれた年である。
何やら因縁を感じる記事だった。
「たとえば…この誘拐された赤ちゃんの一人が、あたしだってことあり得るんじゃないの?」
またもや「横山尚子継子(ままこ)説」が持ち上がってきた。

「この、お人形…」
ほこりまみれのアンティーク人形が、かつて父が使っていた文机(ふづくえ)の上に置いてあった。
あたしには見覚えがなかった。
「誰のかしら?」
身に着けているドレスに「Reiko」と刺繍があった。
「レイコって誰?」
その人形の眼が光ったように見え、気味悪くなって、あたしは元の場所に戻した。
「ここは、あたしじゃ片付かないわ」
あたしは、父の「物置部屋」から出た。

あたしの一階の勉強部屋に戻って窓を開けた。
初夏の明るい陽射しが軒先から一直線にあたしの机に射している。
涼しげな緑陰を庭のクスノキがつくってくれている。
「レイコって誰って父さんに訊いてみようか?それとも母さんに訊こうか?」
しかし、それは許されないことかもしれなかった。
それを訊くことによって、この平穏は崩壊するのではなかろうかと、あたしは不安に駆られた。

あたしの推論はこうだった。
昭和三十七年の夏に大阪で病院が放火された。
そのボヤ騒ぎのどさくさで新生児室から赤ちゃんが五人、盗まれた。
彼らの行方は皆目わからない。
誘拐された赤ちゃんの一人が、愛娘「Reiko」を失ったばかりの横山夫婦に、何らかの理由で預けられた。
「Reiko」は死んだのか、行方不明なのかわからないが、彼女の代わりに同い年の「尚子」を娘として育てることでぽっかり空いた穴を埋めたのだ。
戸籍を入れる前だったので、そのまま「尚子」は横山家の長女として入籍されたのだろう。
祖父が亡くなって学資の遺贈を受けたときに、あたしの見た限り、戸籍抄本に瑕疵(かし)がなかったからだ。

だとしたらここで疑問が二つ残る。
新生児の「尚子」が、そのまま横山夫婦にもたらされたのなら、あたしが幼稚園に入るまでの写真がまったくないことの理由が「カメラが質草になっていたから」という理由で片付けられてよいのだろうか?
仮に「Reiko」が「尚子」と入れ替わったとしても、実の子としての記録写真を一枚も残さないということがあり得るのだろうか?
もう一つは、「Reiko」の出生から五年も経った状況で、新たにに「尚子」という別の子が戸籍を訂正もなく、付け替えられることが戸籍実務上、可能かどうかである。
可能性として、新生児で拐取された「尚子(もしかしたら別の名だったかもしれないが)」五年後に横山家に引き取られたと考えた場合、その五年の空白に、いったい誰があたしを育てていたのだろう?
まさか実の父母ではあるまい。

「残るは血液型かしら?」
杜撰(ずさん)というか、このころの医療では血液型をちゃんと調べることがなかった。
だからあたし自身は言うに及ばず、父母の血液型など知る由もなかったのである。
友人同士で「血液型占い」なんかが話題になっても「あたしの、わからないんだ」と逃げていた。
友達には「ええっ」と大げさに驚かれるが、仕方がないのである。

中学二年生にもなると、あたしの中の疑惑は確信になっていった。
「あたしの父母は本当の父母ではない。偽装家族だ」と。
あたしは、自然に両親によそよそしくなっていく。
両親はそれを「反抗期」だと思っているようだった。

あたしはいろいろな文献を当たっていた。
頼れるものは自分の知識だけだと信じ切っていた。
1960年代、いったい何があったのか?
符合する事件は「北鮮帰還事業」である。
父が朝鮮総連の職員だということが、父の背広のポケットにあった名刺で判明したのだ。
「父は日本人ではないのか?」
このことは、非常に重く、微妙な問題を含んでいると中学生のあたしにもわかった。
父が職業を隠している意味がようやく分かってきた。
父の物置にあった本の妙な文字が「ハングル」であるということも知った。
「病院放火事件」と「新生児誘拐事件」は密接に関連しており、裏に巨大な組織の存在を感じざるを得なかった。
あたしは、日本人と朝鮮人の半血人なのかもしれない。
すると、クラスメイトにいる「在日朝鮮人」たちへの親近感も湧いて来るのだった。

後で知ることになるが、実は父が日本人で、母が朝鮮人だったのである。
母は日本人の父と結婚して在留資格を得ているだけであり、帰化申請していないから朝鮮籍のままだった。
あたしはそれはそれでいいと思った。
しかし、あたしの出自はいまだ五里霧中だった。
「病院火災事件」の拐取された新生児の一人があたしであるのならば、あたしはまったくの日本人である可能性も高いわけだ。
この目の前の横山夫妻とは、なんの縁もゆかりもないわけだから。

「父さん、あの、お人形の刺繍にあるReikoってだれ?」
父は、凍りついたようにあたしを見た。
「見たのか」
「うん」
「レイコは私たち夫婦の最初の子だった」
父は語り出した。
「重い心臓病でね、生まれてすぐに保育器に入れられた」
「そうなの」
「それでもレイコって名付けて、父さんたちは必死に持ち直すことを願ったよ」
「でもだめだったのね…」
「ああ、二週間は生きてくれた。そうして眠るように逝ってしまった」
「かわいそうに」
「母さんはもっと消沈してね、自分も死ぬって言ってきかなかった」
「じゃあ、あたしは?」
「ある人から、自分の子として父さんたち夫婦にもらい受けた。お前に言わなければならないと思いながら、ついつい、今日まで言えなかった。すまない」
「いいのよ。父さん。本当のことを話してくれてありがとう。これからもあたしは父さんと母さんの子だよ」
裏腹に、あたしの心は千々に乱れていた。
それを取り繕っていた。
必死で。
なぜなら「父」はまだ噓をついていたからだ。
あたしの幼稚園に入る前の写真がないことに一言も触れてくれなかったからだ。
そして、あのスクラップ記事を父が作っていたこと、朝鮮総連の職員だった父、新潟地震のことなどを組み合わせると、父はもっと何かを隠していると思えるのだった。
「それとも、地震でReikoちゃんは、亡くなったのかもしれない」
いずれにしても不法なやり方で、あたしは横山夫妻にもたらされた子供だという事実に、あたしはショックを受けた。
本当の父母がどんなに嘆き悲しんでいることだろう。
この同じ空の下で、子供を不当に奪われた夫婦がいるのである。
そして、それを知りながら、あたしの育ての親たちは、あたしを実子のように育ててくれた。
「Reiko」さんはどこかに生きているのかもしれない。
あたしは、幼稚園に入る前までこの横山家にはいなかったのだろう。
だから写真がないのだ。
逆に「Reiko」ちゃんの写真はあったはずだが、それは別れるときに彼女に持たせたのでこの家にはないのだろう。

あたしの存在は犯罪によって生み出されたものだ!
のうのうと生きていて良いはずがない。
死ぬほかないのだろうか?
死んでしまえば、丸く収まるのだろうか?
あたしは、東尋坊の岸壁に立ち、風に吹かれていた。
「Reiko」ちゃんは、きっとこの海の向こうの祖国に帰ったのだ。
さようなら「もう一人のあたし」…

郭公(カッコウ)という鳥は、別の種類の鳥の巣に卵を産んで、その鳥に育てさせるという。
これを「托卵(たくらん)」という。
野鳥の図鑑を携えながら、あたしは風に吹かれていた。
はだしは冷たかった。