学歴って何だろう?
塾の手伝いで小学校高学年の子と中学生を教えているが、彼ら、彼女らはどちらかと言えば裕福でない、親の再婚や片親などの複雑な家庭の子たちだ。
もちろん進学塾ではない。
落ちこぼれて、這い上がるきっかけを見出せない子たちに、なんとか手を貸そうという塾。
勉強が嫌いになってしまって、自分から教科書を開くということをしなくなって久しい子もいるわけね。
それでも親というものは、最後の望みでこういった私塾に通わせるのよ。
月謝が3千円という格安で、うるさい子供の面倒を見てもらえるという、託児所みたいに思われているのかもしれない。
あたしは勉強はそっちのけで、道路でキャッチボールをしたり、雨の日は将棋を指したり、ゴム鉄砲を工作して射撃大会を開催したりと、なんとか彼らの殻を破ろうとする。
ここの塾頭夫妻が、だいたいおおらかな人なのだ。
あたしと同じで夫妻には子供がいない。
いろいろ試したができなかったと聞いている。

人並の進路なんて望むべくもないような子供たちでも、中学生になると将来の夢を語り始める。
そんなとき、お家の事情で高校に進学できないという悩みを打ち明けられると、あたしはどう答えていいか戸惑うのだ。
あたしは教育者ではない。
模範的な人生を送っている者でもない。

小林麻央さんが今日、旅立たれた。
彼女のブログに「なりたい自分になる」という一節がある。
「可哀そうだ」と思われたくない…
そう切々と書き綴り、「一度だけの人生」だから、精いっぱいみんなの愛に包まれて生き切った。

あたしはそれでいいと思った。
そうあるべきだ。
死は誰にも平等に訪れるが、いつ訪れるかは定かではない。

自分の進路が家の事情で妨げられるのは不幸かもしれない。
しかし、自分の人生は一度きりであるのも事実である。
ならば、その恵まれぬ境遇で、精いっぱい、やり切るのもあっていい。
同情を買うのが目的であるはずがない。
人がどう思おうと、自分には関係のないことなのだ。

環境を変えることはできないかもしれないが、自分を変えることはできるだろう?

あたしは学歴をとやかく言う立場にない。
最高学府まで経験した人物が、そうでない人に何をかいわんやである。
反感を買うだけだ。
ただ、あたしは自分の意志で大学院にまで進んだ。
そうしたいから進んだ。
それは、僥倖(ぎょうこう)だったかもしれない。
なんにせよ、あたしの意思だということは言える。

いつごろからか、「白衣を着て試験管を振る自分」を想像して、そうなりたいと思っていた少女時代。
今、目の前で悩んでいる十四、五の女の子の抱いている夢と変わらない。

「将棋を強くなりたい」とか「卓球で世界一になりたい」とか、そういう夢と同じじゃないですか。
若いころはいっぱい夢を見たらいい。
たとえ、思い通りにならなくても、夢を追っていた自分が確かにいたという証は、支えになると思うよ。

「中卒じゃ、就職もできへんわ」と、嘆く彼女に、明確なアドヴァイスをあたしは持たない。
確かにそうだろうから。
たとえ「中卒」でも、彼女にはいいところがいっぱいあるし、もし仕事を覚えたら人一倍ちゃんとやりとげるだろうと確信しているのに、励(はげ)ませない。
あたしの気持ちの中に「中卒じゃ、ろくな仕事がない」だろうと思っているからだ。
社会がそうなっている。
その社会を、あたしも、彼女も変える力などないのだ。
だから、自分を変えるしかないという逆説に到達することになる。
履歴書のない世界のほうが、人を生かせると思うのに。

豊田真由子というとんでもない自民党の議員がいる。
暴言と暴力の人だ。
彼女の経歴は華々しい。
東大を出て、官僚を勤め、安倍晋三の勧めで議員になった。

こういう人が立派な人物か?
あたしは学歴社会のゆがんだ悪い面が日本の未来を暗くしていると思う。
高校の授業料の無償化も大事だが、「学校出たから偉い」みたいな妄想はなくすべきだ。
好きで学校に行くのであって、安定した仕事に就くために学校に行くような価値観は無意味だと思う。
あたしは、好きで学校に行ったわけで、嫌々通っていたわけではない。
もし、ほかにしたいことがあれば、そっちに舵を切っていただろう。
「なりたい自分」があったから、大学の門を叩いたのだ。

それでもその少女に「とりあえず高校に行ったら?」というあたし。
卑怯だと思う。
社会が受け入れてくれないのなら、最低限の「履歴」を彼女に持たせてやりたいと思うのだ。