「無関係ですか? 性暴力」と題し先月21日に放映された同番組では有働由美子アナウンサーが視聴者の意見を読み上げた。「激しく抵抗すれば避けられる」「性交が成し遂げられたのは女が途中で諦め、許すから」「被害者でありながら落ち度がある場合がある」

 これに対し、ゲストでタレントのジョン・カビラさんは「あり得ない」と首を振り、丁寧な言葉で一刀両断。「男はオオカミ」という意見には「オオカミは一夫一婦制で添い遂げる生き物」と機知を利かせて切り返した。番組を受けてネット上で「男性の暴言を一喝した」など称賛があふれた。カビラさんの事務所はツイッターで「大きな反響に驚いています」と謝辞を投稿した。

以上、毎日新聞記事引用。

性暴力の被害者(たいていは女性)にも非があるとは、昔から言われてきて、過去のレイプ裁判記録でも公言されもした。
交通事故で「100対0」の無過失はほぼないという論法と一緒にされるのが性暴力だ。
官憲は、被害者の女にも「どうして抵抗をやめたんですか?同意したんですね」と誘導尋問するのが常套手段だった。
公判で「あなたの膣は濡れていました。性交への期待もあったのでしょう」と加害者側弁護士が臆せず被害者女性に問いかける。
人権を守るべき法廷で、こんな破廉恥な裁判があるだろうか?

ここには人権を踏みにじる狭小な考え方、古い武家社会のような考え方が亡霊のように生きている。
女は「物」という考え方。
「女は男を誘うもの」だとか、「男を誘惑するものだ」という妄想が男にあるらしい。
「男にも落ち度があるけれど、女もいけない」なんてことを平気で言う。
嫌なら強く拒否すればいい…などと勝手なことを言う。

パワハラやいじめの問題もそうだが、相手が強い場合、拒否することもできないのが普通だ。
相手に強い殺意が感じられたら、生き残るためには黙って犯されておこうというような気持になった、戦時下に敵兵に襲われた女性がたくさんいた。
強要、脅迫はりっぱな犯罪であり、被害者が正常な判断ができない状態を言い、被害者は法的にも救済されるはずなのだ。
それを「被害者女性にも非があった」と、したり顔で言う男性は、想像力の欠如であるとしか言いようがない。

女性を酔わせて、心神喪失状態にしてから性交に及んだ事件でも、「いっしょにへべれけになる女性にも非がある」と世間では非難された。
千葉大医学部生によるレイプ事件だ。
「詩織さん事件」もそうだ。TBSの職員に犯されたというものだ。
抵抗できない状況にあって、それでも「非がある」とはどういう了見なのだろう?

性行為はどちらかから強要すべきものではないということを、若いうちから頭に叩き込まねばならない。
なのに、レイプや痴漢行為のAV作品があふれている今日、こういう誤った考えを持った若者が大人になり、結局、女性を貶める考えに賛同したり、自ら行為に及ぶ輩(やから)が減らない原因になる。
あたしはAVの仕事に手を染めながら、もうやるまいと思いながら今日まで来てしまった。
AVやエロ小説、エロ漫画は表現の自由に守られ、成熟してきた。
理性のはたらく「おとな」の嗜好品としての地位を確立したのに、インターネット文化で誰にも手に取ることができるようになってしまった。

あたしは「妄想」は「妄想」と、割り切って鑑賞する立場を守っているけれど、そうじゃない人も多数いるのは承知している。
「あれぐらいやってもいいのだ」、「おんなも最後は喜ぶのだ」、「押し倒してしまえば、こっちのものだ」…
さまざまなAVシーンが浮かぶ。

せめてオナニーにAVをおかずにするのはやめたほうがいい。
もっと品のいい、ソフトな作品を活用し、あとは脳内世界で楽しむように自分を鍛えなければなりません。
流されるようにオナっていては、結局、異常なシーンばかりを追い求める「鬼」の自分を抑えきれなくなるからです。

話はそれましたが、J・カビラ氏の明快な意見に、あたしは賛同いたします。
男の身勝手を許さない社会を作らないと、何度も女が泣かされます。
性暴力は一方的に実施者に非があるのです。
被害者の膣が濡れていようが、加害者の性器を挿入されようが、行為中に声が出ようが、本人が同意していない以上、被害者に非はないのです。