化学工場の夏は地獄だ。
あたしは、京都化成の九条工場で試験生産に立ち会っていた。

アクリル系の重合反応を5トン容量の釜で実施するのだ。
生産の段取りは慣れた生産部の長吉主任と谷本部員がやってくれる。
仕込みが終わって、釜内の温度を上げるために蒸気バルブをゆっくり開いていき、ジャケットにボイラーからの120℃の蒸気を送り込む。
ガランガランと金属を叩くような大きな音がし始める。

長吉さんは打点温度計を見ながら、釜の中をマンホールの丸窓に顔をくっつけて見ている。
谷本君はまだ十九の青年で、ヘルメットもぶかぶかで身についていない。
「修平(谷本君の名前)、釜尻の点検、もういっぺん見てきてや」
主任が命ずる。
「はい」
釜尻バルブに漏れがないか見てこいというのだ。
谷本君が安全靴で縞鋼板(縞板)を軽快に鳴らしながら階段を下りていく。

あたしは二人の邪魔をしない程度の距離を保って、作業を見守る。
研究員は自分の作った試作品を製品に上げるために何度か、本生産に立ち会うのがこの会社のやり方なのだった。
あたしは大学を出てこの会社に担当教授の勧めで入社し、五年が経った。
その間に、この工場で大きな事故があり、操業が止まったこともあり、あたしも基本給だけの休職扱いにされたことがあった。
会社都合だったので、しぶしぶ従ったが、会社側は見かねてかあたしを会長の知り合いの小さな出版社に出向を命じたのである。
あたしはまったくの畑違いの仕事場で約一年とちょっと、会社に呼び戻されるまで勤めた。
編集長兼経営者の女性と、記者二人、和文タイピスト一人の小さな事務所で、それなりに楽しかった。
理系のあたしに、文章を書くことの面白さを教えてくれた編集長だった。
それももう二年も前のことである。

「よっしゃ、還流が返ってきたで」
ランタンを見ながら長吉さんがあたしに言う。
ランタンとは凝縮器から溶媒のアルコールが液化して滝のように釜に戻るところ見るガラスの窓のついた容器である。
つまり還流が返っているということは、釜内がアルコールの沸点に達したということだ。
ジャケットの蒸気を絞るためにバルブを閉めていく長吉さん。
音が静かになる。
「今から、三時間この温度を保つでええねんな」
「はい」
「修平、重合開始剤投入しろ!」
「ほい」
アゾビスイソブチロニトリル(AIBN)が小さなタンクから少量のアルコール(イソプロパノール)で分散させて釜内に投じられた。
釜の中が一気に泡立ち、ボリュームアップしてくる。
ここがこわい。
でも長吉さんは平気だった。
ひとまず落ち着いたので、一斗缶に腰かけて、あたしと長吉さんが反応を見張る。
谷本君は原料のドラム缶を片づけるのにフォークリフトを取りに行った。
「なおぼん、おれな、小説書いてんねん」
意外な一面がある長吉さんだった。
「どんなん書いてはんの?」
「下町もんやな。働いても、働いても一向に生活がよくならんが、人間味がある、そんなんや」
「ペーソスたっぷりの?」
「ええ言葉知ってるね。そうや。ペーソスや。哀愁たっぷりやけど、救いのある」
「脚本とかはしないんですか?」
「うん、そういう会に入ってんねんけどね。いずれ」
自信をもった目で長吉さんがうなずいた。
「また見せてくださいよ」
「おう」

労働者階級には、たまにこのような創作家を産みだす力がある。
あたしは頼もしく思った。
生産部という「3K」の職場で、自分を見失わない人がいることは、あたしも励みになるからだ。

かりそめの「出版界」に籍を置いた経験からか、あたしは文章を編むことが好きになった。
児童文学の集まりに、旦那となる人に誘われて参加したのもそのころだった。

まだワードプロセッサーも高価な時代、寮に戻っては、ちまちまと原稿用紙に向かうあたしだった。
モンブランの万年筆でしこしこ書いていると、長吉さんも灯火の下で、奥さんと子供たちが寝静まるのを待って書いているんだろうなと勝手に想像したりしていた。

「ペーソスかぁ」
あたしはまだ辛酸をなめていなかった。
だから、そういう人生の味わいを知らないのだ。
いたずらなセックスは知っていても、ペーソスは知らない「お子様」だったのだ。