毎日新聞9月14日夕刊に「明治150年(近代から現在を読む)」という記事がありました。
連載物なんですけど、「現実主義的だった日本外交」と題して学習院大学の千葉功先生が寄稿されていました。
1894年に勃発した「日清戦争」が日本に与えた影響を最近の研究成果から述べられていまして、あたしの興味のある近代史だったのでちょっと引きます。

あたしは1875年の江華島事件が日清戦争の端緒だったと記憶していたのですが、千葉先生はこの事件には触れておられません。
江華島事件とは、漢江(はんがん)の河口にある江華島において日本と朝鮮王朝が武力衝突した事件です。
背景に西郷隆盛の唱える「征韓論」があったのです。
※征韓論はその後、明治六年に政変があって「延期」となって鳴りを潜めます。この政変は朝鮮遣使が明治天皇の裁可で廃止になったことに対して延期になったことを受けて遣使賛成派、征韓論者の西郷隆盛ら参議と約600人の官僚や軍人が辞職する問題に発展したことを言います。

朝鮮と日本新政府は幕府時代の関係を改めて、新しい国交樹立を目指そうと交渉しようとしていましたが、大院君(朝鮮王)は日本の西洋化(西洋かぶれ)を嫌ってなかなか良い返事をしません。
朝鮮にも攘夷(じょうい)という考え方があったようです。
※攘夷とは「外国人を払いのける」という意味です。

朝鮮王朝は冊封体制により清国の影響下にありましたので、日本を下に見ています。
だから、日本の高飛車な態度、文書の文言の横柄、着衣の西欧化などに難癖をつけて、交渉のテーブルにつこうとしない。
だから「征韓論」なんかが日本で起こり、力で朝鮮半島を征服してしまおうということになるんですね。
明治政府もそこまで乱暴な手は使いたくないが、なんとか「冊封からの解放」という名目で朝鮮国を懐柔したいと思っていた矢先の江華島での武力衝突でした。
日本は朝鮮半島沿岸に表向きは測量を目的とした「雲揚」他一隻の軍艦を派遣していました。
征韓論者から朝鮮国に威圧を与えるべく軍艦を派遣せよという意見もあったので、それらをなだめるべく、政府としては密かに「海図作成測量」目的で派遣したのでしょう。
実際「雲揚」と「第二丁卯(ていぼう)」は測量をしていた模様です。
「雲揚」は長崎から対馬や半島沿いに行ったり来たりして、釜山や漢城を訪れ、途中、朝鮮の民家の火災の鎮火に協力したり、朝鮮側の知事からわいろの要求をうけたり、薪炭の補給(無断だったため咎められる)など複雑な経験した航海だったようです。
ところが1875年9月20日に江華島に接近したとして同島の砲台から砲撃を受け「雲揚」も応戦し、交戦状態となりました。
「雲揚」艦長井上良馨(よしか)は薩英戦争で初陣を張った、海戦の手練れです。
彼は薩摩藩士で西郷隆盛に近く、征韓論者でもありました。
※以上の戦闘の経緯は井上良馨の上申書によるものです。

このいざこざの後、日朝修好常軌(江華条約)が締結され、日本の主張が認められ朝鮮の開国、清朝からの冊封からの独立を明記した朝鮮にとって不平等な条約でした。
江華条約の内容について朝鮮の宗主国である清国は当然ながら不満を持ち、以後、ことあるごとに日本と対立姿勢を露(あらわ)にします。

「日清戦争」は朝鮮半島をめぐっての日本と中国(清国)が利権を争ったことが発端になりました。
このころ朝鮮国国王の妃「閔妃(びんひ)」が国王高宗をさしおいて実権を握っていました。
※韓流ドラマ「明成皇后」とは「閔妃」のことです。閔妃は汚職にまみれ、さながらパク・クネ元大統領のような人物だったのかもしれません。日清戦争後の1895年10月8日に閔氏は日本人によって暗殺されたようです(乙未事変)。

日本に「そそのかされて」開国させられた閔氏朝鮮でしたが、その後の開化政策で財政的に疲弊し自国兵への俸給が滞るなどのことが原因となって兵士の不満が爆発してしまったのです(1882年、壬午事変)。
壬午事変とは、朝鮮国首府「漢城(現在のソウル)」で閔妃政権とそそのかした日本に対して朝鮮兵が反乱を起こしたことを言います。
この時、日本も軍を出しますが、宗主国「清国」も派兵するからややこしくなったのね。
ところが実際に反乱軍を鎮圧したのは清国の兵であり、それゆえ、漢城には清国軍が駐留しました。
清国は宗主国としてそのまま閔妃を押し立て、朝鮮再興を進めました。

同年に日本も当然、朝鮮に賠償金を請求し、半島への日本の陸軍の駐留を許諾させます(済物浦(さいもっぽ)条約)。
清国ではその後、大臣の李鴻章(りこうしょう)が袁世凱(えんせいがい)を朝鮮に派遣します。
袁世凱が「朝鮮国王代理」として政権を掌握するのでした。

1884年またもや漢城で朝鮮人の動乱が起こります。
今度は政権打倒のクーデターで(甲申事変)、金玉均という開化派の人物が首魁でした。
※「きんたまひとし」ではありませんよ。

1870年代から金玉均は日本と関わっていました。
金は右議政(朝鮮王朝の右大臣・副首相)だった朴珪寿の教えを受け、軍事国家建設の志を持ちます。
このころの朝鮮王朝は清国を後ろ盾に独立国家を歩むのか、親日でそれを進めるのか逡巡しており、内府も派閥に分かれてもいました。
ただ金玉均は、ひとあし早く開化をなしとげて発展している隣国、日本に興味を抱き、李東仁(僧侶)を日本に密入国させて後藤象二郎や福沢諭吉に近づかせます。

その後、金玉均自身も来日し、多くの政財界の人物に会うことができ、知己を得ます。
金玉均が朝鮮国の開化をクーデターによって成し遂げようとしたのは、ほかでもない日本の影響だったのです。
金玉均は日本と協力して清国の支配から逃れ、朝鮮の近代化を図ろうとしたのですが、そのために清国に捕らえられ、凌遅刑という、ゆっくり肉を削がれる世にも残虐な刑を受けて亡くなるのでした。
こうしてクーデターは未遂に終わってしまいましたが、かえって日本と清国の対立は激化しました。

1885年日本と朝鮮は漢城条約を締結し、同時に日本と清国は天津条約(英・清の「アロー号事件」の際のものとは別の条約)を結びます。
甲申事件失敗で漢城は不穏になり、漢城の在留邦人は仁川の居留地に安全に引上げさせるように在漢城公使の竹添進一郎が朝鮮政府に申し入れます。
清国の軍からも在留邦人が危害を加えられる可能性もありました。
なぜなら、甲申事件の裏には日本がいて、あやつっているのだと清国が思っていましたから。
井上馨全権大使は清国と険悪な関係になることは避けたいと思っていました。
当時の日本の国力では、とうてい清国に勝てるものではなかったとの伊藤博文らの明治政府の判断もあったからです。
井上は漢城条約で朝鮮に謝罪と賠償を求め、伊藤博文全権大使は清国と、デタント(緊張緩和)を目的とした、両国の撤兵を内容としたものを清の全権、李鴻章との間で天津において締結しました。

この年、日本では内閣制度が創設され、伊藤博文が最初の内閣総理として就任します。
そして、1889年には大日本帝国憲法が公布されます。

1894年、東学党の乱(甲午農民戦争)が朝鮮で勃発します。東学という新興宗教(東学党)が元になった農民一揆の大規模なもので、閔妃の重税、両班(ヤンバン・貴族)の汚職などが、農民に圧政を強いた結果の農民蜂起でした。
この反乱は半島全土におよび、もはや一揆などという言葉では片付かない規模に発展します。
反乱の平定に、またもや日本と清の軍隊が朝鮮半島に流入し、反乱終息後も両軍が半島内で対峙する結果になったので、朝鮮が撤兵をお願いしても埒があかず、日本は朝鮮の完全独立を清に求め、清国は早期に日本は撤退せよと主張し、イギリスまでも干渉してきてしまう始末で、双方にらみ合います。
これが日清戦争に発展してしまうのは、歴史の授業で習いますね。
※これまでイギリスはアヘン戦争やアロー号事件などで清国に干渉してきましたね。アヘン戦争後の南京条約で香港を手に入れたイギリスは、第二次アヘン戦争ともいうべき「アロー号事件」で九龍半島までも手に入れます(北京条約)。

日本は1890年代に経済的に恐慌に陥っていました。
よちよち歩きの明治新政府は外交でも、内政でもうまくやっているとはとても言えない状況だったのです。
そこに大国「清」に対して大きく出たい気持ちがありました。
江華島事件からこっち、朝鮮半島をめぐって日本と清国の対立は激化していたのです。
千葉先生は陸奥宗光の目線で日清関係を見る必要があると説きます。
「かみそり大臣」の異名を持つ陸奥は伊藤内閣で外務大臣の要職に在りました。
陸奥は江戸末期に坂本龍馬の「海援隊」に所属し、龍馬とは親密な仲だった。
だからか、龍馬が京都で暗殺されると、その首謀者が紀州藩士三浦休太郎だと信じ、彼に報復するため逗留先の天満屋に仲間と乗り込むなどしたんです。
天満屋には新選組が警護しており、そこで紀州藩士が宴会を催しているところに陸奥らは乗り込みますが、燈明が消され暗闇での取っ組み合いで三浦を取り逃がしてしまうのでした。

陸奥宗光が清と朝鮮の冊封関係を解消させようと画策するのは外務大臣になってのこと。
朝鮮を独り立ちさせ、近代化も推し進めようとするのです。
陸奥の時代には、先の井上馨が外務卿だったころとは異なり、もはや清国に対して遠慮する必要はないくらいに日本の立場は確固たるものになっていました。
陸奥外相が朝鮮半島のパワーオブバランスを維持するため、半島出兵はやむなしとするも、西側列強諸国に対しても日本の派兵行動の正当性を訴えなければならぬと画策していました。
その一つとして清への嫌がらせとして、朝鮮政府に干渉し、日本と内政を共同で統治しようと提案します。
また日本国内でも対外強硬路線と折り合いを付けねばなりません。
丸山真男が陸奥宗光の回顧録「蹇蹇録(けんけんろく)」を読み解き、彼に強い現実主義があったことを示します。
明治維新を潜り抜けた新政府の政治家には、のちの日本の政治家にはない政治的リアリズムがあったと言うのです。
そして千葉先生は日本の今の政治家にとって必要なものは、やはり政治的リアリズムだと説きます。

日本は朝鮮半島内で勃発した甲午農民戦争(東学党の乱)で派兵し、清国も派兵してきました。
乱は収まりましたが、両国の進駐は続きました。
1894年夏、ついに日清戦争の火ぶたが切られたのです。
陸奥宗光は「蹇蹇録」で「今回の戦争はその意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想しています。
清の軍隊は旧式で、統制の取れない烏合の衆に過ぎませんでした。
反対に日本軍はここ数年で近代軍政を身につけ、陸海の軍勢は破竹の勢いで清軍を押しまくり、朝鮮半島はおろか遼東半島まで手中に収めます。

1895年にはこの戦いにけりが付き、その春、下関において日清講和条約(下関条約)が締結されます。
多額の賠償金の請求に並んで、遼東半島や台湾を日本に割譲させました。
ところがフランス、ドイツ、ロシアがこれに異議を申し立てて三国干渉となります。
日本の遼東半島所有は極東の平和の妨げになるというのが趣旨でした。
あたしの考えですが、「平和の妨げ」なんてのは口実で、レームダック状態の清国を列強はよってたかって分割しようと虎視眈々と狙っていたのです。
そこに日清戦争で勝利した日本が有利に清国の領土をほしいままにされるのが耐えられなかったんですね。
日本はやむなく、遼東半島を清に返還します。
ロシアは干渉の結果、かねてより所望だった極東の不凍港として、遼東半島近くの旅順港を租借地として獲得するのです。
朝鮮王の妃、閔妃が日本人によって暗殺されるのもこの年の秋でした(乙未事変)。
日本が得た清国からの多額の賠償金が、その後の海軍力増強に使われたのは言うまでもありません。
のちの「八八艦隊計画」もこの資金があってのことです。
多額の賠償金が斜陽の清国だけで賄えるわけもなく、列強各国が「見返り」を担保にお金を貸してくれたんですね。
ドイツは膠州湾一帯、フランスは広州湾一帯、イギリスはさっきも書いたように九龍半島などを借款の見返りに租借するんです。
三国干渉は実は清国解体が目的だったのでした。

日清戦争の間、朝鮮王高宗と閔妃はロシア公館に隠れていたらしい。
閔妃が1895年に暗殺され、1897年に高宗はロシア公館から王宮の慶運宮に戻りました。
清が戦争に負けてもはや朝鮮は冊封から解放されたのですから、国号も「大韓帝国」に変えてしまうことにしたのです。
ロシアと朝鮮王の関係は深かったようですね。

1900年に山東省の義和団というキリスト教系秘密結社が「死に体」の清王朝(西太后)の後ろ盾を得て、清国を蝕む列強諸国に反乱を企てます(義和団の乱)。
義和団はすぐに鎮圧されてしまいますが、清国はまたもや列強に賠償金を請求される羽目に陥ります。
このとき、義和団と戦うために列強軍と日本軍で連合軍が組織されたのです。
大沽砲台・天津攻略戦を最大の山場とし、清国軍と義和団軍と衝突し激戦を制して連合軍が勝利しました。
西太后は変装して「アロー号事件」以来、二度目の紫禁城から逃亡を企てます。
彼女は西安に逃げ延びたらしい。
残る北京では籠城が続き、二か月弱の末、開城となったようです。
日本はその後の大陸進出の足掛かりとなる軍の支那駐屯を北京議定書に基づいて獲得します(1901)。
1904年に日露戦争が勃発しますが、それはまたの機会に…

どうやら日本の大陸進出は朝鮮半島の獲得の経緯が元になって、日清戦争に勝利したことから軍事国家に進路を切ったことで、その後の「悪い日本」の部分が作られたと、あたしなんかは思います。