小学生のお勉強を塾で見てあげていますと、学校の先生とあたしの教え方とずいぶん違うので、子供もあたしも戸惑います。

ひとつは漢字です。
たとえば「木」の第二画の縦棒は「止める」のか「はねる」のか?
教科書体という字体を手本とする指導要領では、「止める」が標準であり、「はねた」としても誤りとしないとありますので、どちらでもよいようです。
実は教師負担を減らすために指導要領で細かく漢字の書き順や「止め・はね」を提示しているんですが、先生はしゃくし定規に指導要領通りに生徒に押し付けてしまうようです。

あたしは書家でもありましたので、この「止め」「はね」は次の画への連綿を表すので、「木」の場合「はね」て次の画に移るように書きます。
したがって「はねる」のが正しいと理解しています。
行草をやりますと、その意味がお分かりになると思います。

漢字には何千年の歴史があります。
書き方、書き順もある程度の決まりはありますが、自由な面もあるのです。
というより何通りかあるというのが正しい。
「山」は二種類の書き順があります。
真ん中の縦棒から始める書き方と、左、横、真ん中、右と運筆する書き方です。
だから、連綿も二通りがあるのです。
「本」にいたっては、崩すときに独特の崩し方になり、「大」と「十」に分かつ書き方で崩します。
楷書の書き順とはもはや関連がないんですよ。

このように書道の漢字の扱いと、国語学習での漢字の扱いは大きく異なります。
小学国語では省略なく書ければよく、「止め」や「はね」「はらい」に神経質になる必要はないのです。
指導要領でも「間違い」とは書いていません。

書き順も最終的に書きあがりが正しければ問う必要はないのではないかと思います。
読めて書ければよしとしたい。
中学入試で書き順が出題されることがあるようなんで、どうでもいいとは言えませんがね。

大人になれば明朝体やゴシック体に慣れ親しむわけで、「しんにょう」などは教科書体とは異なる形です。
こういうものにこだわり始めると、お勉強が前に進まなくなります。

夏目漱石の「門」という小説の最初の方に、主人公の宗助が「どうも字というものは不思議だよ」と細君に問いかける場面があります。
宗助は何を不思議がっているのでしょうか?
「幾何容易(いくらやさし)い文字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分からなくなる。この間も今日の今(こん)の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違った様な気がする。仕舞には見れば見る程今(こん)らしくなくなってくる」
と言うのです。
これは心理学の分野では「ゲシュタルト崩壊」として知られる症状です。
あなたもありませんか?こういう経験。
だれにでも起こり得る症状だといいます。

見慣れた文字が、ある日「どうも変だ、こんな字だったろうか」と疑うようになる。
文字の一画一画がばらばらになってしまう。
いったい、この字は何だったのか?
辞典で調べて納得してみるが、一抹の不安が残るのです。

日本人はあらゆる文字を駆使する能力が高い。
漢字、かな、カナ、ローマ字、数字、顔文字…
だからゲシュタルト崩壊を起こしやすいのかもしれませんね。