高須四郎海軍大将を調べていると、思わぬ事実に突き当たった。

彼は、昭和十七年の九月、日本の戦局が悪化しだした南方戦線において、南西方面艦隊司令長官に任命された。
この司令は第二南遣艦隊司令も兼ねている。
昭和十九年に「海軍乙事件」が発生し、古賀峯一連合艦隊司令長官が行方不明になったときに、一時的に高須大将が連合艦隊司令長官を拝命した。

この人の経歴をさかのぼると、「五・一五事件」に行き当たる。
この事件は海軍軍人が企てたクーデター未遂事件である。
のちの陸軍青年将校たちが起こした「二・ニ六事件」につながる事件ともいえる。

昭和七年に起きた「五・一五事件」は、先の昭和五年、ロンドン軍縮会議での日本の弱腰外交に反発した海軍の青年将校たちが企てたものだと考えられているが、昭和四年以来、世界恐慌のあおりで日本の政治は行き詰まっており、政情不安も関係していた。
時の首相、若槻礼次郎(禮次郎)は我が国の大陸への支配を今以上拡大させない立場であったことから陸軍、ことに関東軍と対立していた。

が、しかし、中国大陸で柳条湖事件が発生してしまい、満州事変が勃発すると、若槻首相の立場は一層悪くなった。
海軍の青年将校、藤井斉(ひとし)らが「昭和維新」と称して若槻礼次郎暗殺を企てて仲間を集めていた。
ただ、藤井大尉は空母「加賀」に配属され、第一次上海事変に参加、彼の操縦する攻撃機は撃墜され戦死してしまう。
ただ、彼は遺書を残しており、仲間に「後を頼む」とだけ記されていた。

昭和六年の選挙で若槻の立憲民政党が大敗し、第二次若槻内閣が総辞職したため、藤井の遺志を継いだ仲間は「昭和維新」のターゲットを次の首相、犬養毅に定めた。

犬養は陸軍の満州政策に好意的だったので事変を黙認する立場だったけれど、海軍青年将校たちは昭和七年五月十五日に犬養首相を官邸で射殺するのだった。
犬養首相はもとより軍縮派であり、海軍青年将校たちはこの点も気に入らなかったのだろう。

さて、警視庁によりクーデターは鎮圧され、彼らの「昭和維新」は失敗に終わる。
クーデターの容疑者たちの裁判、つまり海軍の軍法会議で判士長(裁判長)を務めたのが高須四郎だった。
高須の審判は、容疑者の全員を死刑にしないというものだった。
その判定が寛容すぎたとして、のちの「二・ニ六事件」を誘発させたと言われ、病で海軍から退いてから、彼は病床にあるときもそのことを気に病んでいたという。
高須は軍人でありながら、戦争のリスクを良く知っており、日米開戦にも反対していたし、日独伊三国同盟にも批判的だった。
高須四郎は、昭和十九年に日本の行く末を案じながら病床で息絶えた。

はからずも「五・一五事件」は日本に根付こうとしていた政党政治を崩壊させ、日本がファシズムへの道をひた走る端緒になってしまった。

藤井斉に話を戻す。
この人は海軍兵学校の出身で、在校生のころから思想的に独自のものを持っていたらしい。
同期生と語らって「大アジア主義」を唱え、退校させられそうになるが免れた。
鈴木貫太郎軍令部長(当時)が来校したおりにも、軍縮反対の演説をしたというから、かなり危ない男だったようだ。
それでも卒業後、順当に海軍で経験を積み、大村航空隊の教官にまでなっている。
戦死するまでは先述の通りだが、その間に井上日召と親しくしている。

井上日召(にっしょう)は右翼団体「血盟団」の長で、テロリストである。
彼の起こした「血盟団事件」(1932年)は「五・一五事件」につながった。
この事件で井上は無期懲役となる。
自身は日蓮宗の僧だというが、南満鉄に入社して諜報活動をやっていたらしい。
戦後も右翼活動を続けており、日本赤軍のリーダー重信房子の父親は血盟団のメンバーだった。

重信房子が極左の過激派に成長するには、この極右の父の影響が大きかったというのだ。

あたしが「左翼も右翼も紙一重」と言っているのがわかるでしょう?