大阪の北河内で育ちますと、その、何と言いますか「ガラの悪い」「すれた」人間になります。
そういう人に囲まれてますので、人生のお手本がすでに「常識外れ」だったりする。

幼稚園児ですでに小銭の貸し借りを「といち」で実施したり、チョーセン長屋でキムチの洗礼を受けたりするわけです。

門真一中は暴力団のご子弟がいらっしゃって、「兄さん、姐さん方」にかわいがってもらうためにいそいそと貢物をするんですよ。
あたしは、レンコン畑の真ん中にあった「二中」出身なので、一中生には相手にされていませんでしたが、三中、四中、五中は悪くって、しのぎを削っていましたっけ。

二中には農家の穏やかな子が多く通っていたようです。

でも、一中の校区に二中の制服で出かけようもんなら、奴らに睨まれて、カツアゲされるのがオチですからそんなバカはやりません。
「おいこらニホンセン、待たんかい」
と、兄さんに呼び止められたら、もうまな板の上のコイですわ。
「ニホンセン」とは二中生の男子の学帽に巻いてある白線のことで二本あるから二中を示します。

カツアゲされるのがわかってるから、それ用の小銭を持っておくんです。
「飛んでみ」
と言われて、その場でジャンプします。
すると小銭がチャリチャリ鳴りますから、それを差し上げるんです。
五百円札とか千円札は靴底とか、ベルトの裏に貼りつけたりして隠すんですが、敵もさるもんで、そんな「まるわかり」の場所は目ぇつけられてます。
とにかく、つかまったら「上納」するしかない。
そのお金は遊興はもとより、妊娠中絶のカンパに使われたりするんです。

あたしらの住んでいた「上小(かみしょう)」校区は上野口町といいました。
袋小路の多いところで、天理教の教会のうっそうとした森とどぶ川の水郷が名所(?)です。
「上小」とは「上野口小学校」の略です。
あたしが小学三年生のときに新設された綺麗な小学校でした。
その造成の工事現場でダンプの運転手「ヤノさん」にいたずらされたっけ。

工場と言えば小さな鉄工所やプレス工場があったり、天辻鋼球という、わりと大きなベアリング鋼球を作っている会社がありました。
あたしは男の子たちと一緒に鉄工所に忍び込んで「ろう石」を窃盗したりして、結構なワルでした。
「天辻」にも忍び込んで、大きな鉄球をせしめてきたり…
ビー玉遊びで鉄球を使えば百人力でしたが、勢い余って「頓死(とんし)」といって穴に落ち込むこともありました。

市会議員の選挙になると、選挙カーが細い路地を練るんですね。
子供らがおもしろがって、後をついていきます。
「市会議員候補、馬場猪太郎(ばばいたろう)に清き一票をお願いいたします」
というアナウンスを口々に真似て、
「ばばこいたろうです」
と、「こ」を絶妙に配置して、大笑いを取るところが大阪の子らしい。
すると「馬場氏」の選挙ポスターの名前にはかならず小さく、ときには大きく「こ」の字がサインペンで付されていたりする。
そして見事に「馬場氏」は当選を果たしたのです。
子供らが親に知名度を上げさせたのかもしれません。

今なら「ベタ」なネタも、テレビからではなく、周囲の大人から仕入れていました。
「エイプリルフールの日は、人前で屁をこいてもかまへんねんで」
というようなローカルルールが存在しました。
なぜなら「嘘をついていい日」というのが、わたしたち子供にはピンとこなかったからです。
だって、毎日、うそをついて生きていましたから、四月一日だけそんなことを言われてもなぁ…
大人も子供も、たいした「うそ」つきでした。
だから四月一日は「屁をどうどうと、こいていい日」にしたんでしょうね。

あたしは、おしっこ臭い長屋住まいでしたが、父の弟、つまり叔父が大阪府立大学に通うのに、あたしたちと同居していたんです。
叔父の実家は交野市で、ちょっと通うには遠かったし、下宿するには中途半端だったんでしょうか。
父が「それやったら、ここから通ったらええがな」となったんでしょうかね。
あたしが物心つく前から叔父が住み込んでました。
遊び相手は、叔父が中心で、彼が電気の学部生だったんで、科学的な遊びや話題に事欠かなかったんですね。
そして多趣味で、アマチュア無線やラジコン、プラモデル、天体観測など、みんな叔父から教わったんです。
大学を無事卒業した叔父は関西電力に就職したので、だんだん家にいることが少なくなり、ついにはどっかアパートを借りてだったか社宅だったかに引っ越していきました。
あたしは地元の「門真高校(現なみはや高校)」に進学しました。
その時は、あたしは叔父のように理系の大学に行くんだと勝手に思い始めていたのです。
科学部に籍を置いていたことも理由の一つだったのかもしれない。
いい友人に恵まれたし。

でもね、あたしの幼馴染で大学まで行った子は、お医者さんの息子の大西君以外にいませんでした。
そんな余裕は、たいていのお家にはなかったんです。
それに女が大学なんて「何を考えているんや」と言われかねない雰囲気もありました。
ところが母が「行きたかったら、行きなさい」と言うてくれました。
父も「一人っ子やし、それくらいの金はあるわい」と根拠のないことを言う。
あたしは漠然と「お茶の水博士」のような人になりたいなんて思ってた。
物理や数学があまり得意でないあたしは化学がそこそこ得意だったので、それで「共通一次試験」をクリアして大学に入ったのでした。
あまり猛勉強はしていなかった。
ヤマが当たっただけの、運だけで入ったようなもんです。

「人生は博打や」とは父の言葉ですが、まさにその通りなんだなと思いました。
そして「科学とは疑うこと」だということも、門真(かどま)という「うそつき」の街に育ったから、ひとしお、そう思うのです。

反面教師がいっぱいいたから、今のあたしがあるんだとも思います。
この世には「運のいい人と、悪い人しかいない」とは母の言葉でした。

不幸な事故や災害に遭われた方は、なんの落ち度もなかったし、人一倍、他人想いで努力家だったかもしれないのに、ある日、一瞬にして命を奪われる…
それでも人は精いっぱい生きようと努力するんですね。

あたしはそれがわかっているのに、のほほんと生きている。
社会を斜めに見るしか能のない、悪い女です。
「何もしない悪」もあるんですなぁ。
それでも「一票」は入れてきますよ。
雨が降ろうが槍が降ろうがね。