浩二の噂を耳にしたのは、意外な人物からだった。
あたしは、舞鶴での仕事の帰りに、福井県の敦賀に実家のある大学時代に知り合ったボーイフレンドを訪ねてみようと思い立った。
たしか、その男性は上智大学出身だったと言っていた。
もしやと思い、電話して従弟のことを尋ねると「そいつなら知っている」と言うのだった。
「明日、会えるかな」
あたしは、焦る気持ちから相手の立場も考えず問うてしまった。
「あした?横山…やなかった、後藤こそどこから来るんや?」
「横山でかまへんよ。あたし舞鶴に、今、来てんねん、明朝、ここを発つから」
「わかった、近くまで来たら電話、入れて。見せたいもんもあるし」
「うん。ありがと」

敦賀は、かつて高校時代に、あたしが北朝鮮の暗号指令をアマチュアバンドの28MHzを使って電信で送った先でもあったことも思い出した。
あの時の明恵の話では、このあたりの在日二世の電気店の店主が土台人となって工作の手配をしているらしかった。
その「工作」が日本人拉致目的だったとは、ずいぶん後になって知ったのだけれど。
あたしは、昔のことを思い出しながら、海沿いの国道27号線をダットサンで東に飛ばしていた。

電話口に出たその友人、溝畑祐介は、確かに従弟の浩二のことを知っていると言った。
あたしは彼の言葉を反芻(はんすう)していた。

久しぶりに会った祐介もちゃんと結婚していて、一児の父になっていた。
今は敦賀の市立博物館の学芸員をしているそうで、仕事の途中で抜け出して来てくれたらしい。
昼までには少し早かったが、近くのファミリーレストランで一緒に食事をしながら話を聞くことにした。

「ああ、その男の子がね…二浪して上智に受かったんで下宿先を探しているとかで、学生生協のバイトをしていたおれに尋ねてきたんや」
「それが浩二?」
「最初は名前を聞かんかったけれど、おれが生協の不動産部が扱う賃貸物件を紹介したとき、高安浩二と名乗ったんや。横山の従弟(いとこ)と同じ名やろ?変わった苗字なんで覚えてた」
「そうやね。間違いないわ。で、浩二は、この住所を自分の両親に伝えたんよ」
あたしは紙片を見せた。
「四谷二丁目?…違うな。麹町(こうじまち)やったで、たしか。上智は本校と文学部が別の校地なんや。麹町のほうが文学部に近いんや。それで、そっちの空き部屋を探して、見つけたみたいやった」
「ふうん。浩二とはその後も話すことがあったん?」
「授業で会えばね。大阪からきた学生って珍しかった。おれも関西弁やったから親近感が湧いてね。それくらいの印象しかないわ」
「浩二の周辺で失踪につながるような人物や事件はなかった?」
「それなんやけど、神学部の女学生と親しくしていたみたいやった」
「神学部?」
「上智はミッション系の大学なんや」
「そうなん、誰なんやろ?」
「大学生やから恋愛も自由やんか。おれかて、君とつき合うてたやないか」
「そらそうやけど」
あたしは、大学時代から数年間、大阪の国立民族学博物館(みんぱく)の友の会に入会していた。
あたしの大学では一般教養科目の選択科目として「民族学」なんかを履修することができた。
この教科では「みんぱく」で自分のお気に入りの展示物を見つけ、小論文を仕上げるという夏休みの課題があり、あたしも、「みんぱく」に赴(おもむ)き、アイヌの民族衣装や祭事の道具などを熱心に見ていると、祐介のほうから声をかけてきたのだった。
彼は大阪に旅行に来ていて、有名な「みんぱく」を一度訪れてみようと考えていたそうだ。
祐介は専門が日本史だそうで、将来は古代日本史をやりたいと話していて、こういったアニミズム的なものに興味を持っていることなどを一方的に話しだした。
数日間、大阪に滞在しているというので、その間、毎日、梅田やミナミでデートした。
しかし、肉体的な関係にはならなかった。
お互いそういうことには慎重だったのかもしれない。
「神籬(ひもろぎ)」や「依代(よりしろ)」について、彼が東京に帰ってからも電話で定期的に話したりする仲だった。

そんな馴れ初めを思い出してぼうっとしていたのだろう。
祐介が、念を押すように尋ねた。
「まったく、連絡がないままなんやね?」
「え、あ、うん。そうなんよ」
あたしは、現実に引き戻された。
「それで思い出したんやけど、その神学部の女性の写真があったんや。これ」
そういって、写真を一枚出してくれた。
学園祭かなにかだろうか、雑然とした人込みと模擬店のようなものが写っていて、そこに写っている売り子の女性が、件(くだん)の女性だというのだ。
どこかで見たことがあるような。そんなはずはないのだけれど…
記憶をたどると、あたしは血の気が引いた…
金明恵、日本名「金沢明恵」だ。もう十年以上も会ってないのだから記憶も薄れていた。
「間違いないわ。この女が浩二と接触していたんやね?」
「あ、ああ」
あたしの剣幕に、怖気づいて、祐介が一瞬引いた。
あの子、あたしを騙したのだ。
めらめらと怒りがこみあげてきた。
あたしの体をもてあそび、あろうことか最愛の浩二をも手玉に取って…
「朝銀に勤めてたとか言うて、うそやったんや」

祐介と別れ、あたしは車で山間(やまあい)の国道303号線を南下していた。
時間がたつにつれて、冷静になってきたせいか、反対に、どうして浩二を明恵が知ったのだろうか?と考えるようになった。
叔父に、明恵のことを打ち明けたとき、あたしの家族構成やら、居所をほのめかすような情報を彼女に与えたかと、叔父が訊いてきたことがあった。
そのとき叔父は、北朝鮮のネットワークの緻密さを強調していたっけ。
あたしは半信半疑だったけれど、明恵にこちらの情報を話してしまっていることを思い出し、しまったと後悔していた。
叔父の突然の死も、今から思えば怪しいではないか?
関西電力の叔父の同僚も、本来、職員でも入ってはいけない南京都高圧変電所(宇治田原町奥山田)のフェンス内に叔父が入って倒れていたことが不思議だと言っていた。
事件性はないと警察も片付けてしまったのが残念でならない。

それから、こういうことも思い出した。
あたしは中学時代に叔父から教わった、BCLという海外短波放送を聴いて受信報告を出し、ベリカードをもらう趣味を楽しんでいたことがあった。
そのとき、平壌放送局の日本語放送にも報告書を出して、ベリカードをもらっていた。
つまりあたしの本名と年齢、住所、近況、趣味などが筒抜けになっていることに思いが至った。
もしかしたら明恵と、朝鮮総連に勤めるその父親はわざとあたしに近づいたのではなかったか?
本国からの命令で。
北朝鮮の在日の子弟は普通、朝鮮高級学校に進むものだ。
しかし、日本人を抱き込むために、わざと日本人のふりをして日本の高等学校に子弟を入学させるようなこともしていたらしい。
そして巧みに勧誘するのだ。
土台人としてか、拉致ターゲットとしてか…

明恵はあたしが誘いになびかないので、浩二に舵を切ったのだろうか?
そうに違いない。
あたしでも浩二でも、明恵にとっては価値は同じだったのだ。

あたしは、浩二が上智に入って東京に行ったことを、たぶん彼女に話してしまったのだ。
たしか、浩二が、あたしの初体験の相手だったということと一緒に…