日本を取り巻く環境や世界の経済を俯瞰する書物として、ジョセフ・E・スティグリッツの『Making Globalization Work』(邦題:世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す)を紹介したが、「グローバリズム」の欺瞞性を真正面から問うた名著だと思う。
スティグリッツはノーベル経済学賞受賞者でもあり、素人にもわかりやすい経済評論を多数出版されており、中でも本書が手に取りやすいものだと思う。
この著作が執筆されたころがイラク戦争、ブッシュ・小泉時代であったことを留意しても、今なお、同根の問題が存続し、世界はスティグリッツの予想通りの世界になってしまった。

つまり「グローバリズム」とは世界を股にかけてビジネスを推し進め、利益を上げる経済活動の動機をいうのだろうが、なかなか前向きで、勇ましく、人を鼓舞する言葉だ。
日本政府も「グローバルな人材育成」を標榜し、学生や教員の後押しをすることに余念がない。


はたしてこの国家事業的「グローバリズムの推進」が正しい事なのか?
そういう一方向的な全体主義に一石を投じたのがスティグリッツにほかならない。
現にその「ゆがみ」は出てきているではないか。
いわゆる「格差社会」や「格差の固定」からくる「貧困問題」である。
また中間層の没落から、消費活動の低迷が加速し、雇用を創出することができず、デフレ脱却など程遠い生活になってしまっている。
なぜ急激なグローバル化がこのようなゆがんだ世界をもたらすのか?
それにこたえるのがスティグリッツであった。
富の偏在は、言い換えれば富者から貧者にキャッシュフローしないことだ。
トリクルダウンという「したたり現象」が起こらないことを意味する。
富者は、勝ち逃げし、福祉や社会資本に金を流さない。
また国家も富者に寄り添う政策を打ち立てる。
なんだか共産党の言い分みたいなことになるのだが、実際、冷静に見て、そうなっているではないか?
日本政府は法人減税や投資家を優遇するような税制に積極的だが、増税や社会保障の負担は一般国民に押し付ける。
賃金アップを経済界に要請するも、大会社の内部留保は減らないどころか増えている。
労働者への還元などごく一部に過ぎないし、別にそうだからといって罰則があるわけでもない。
雇用は不安定なまま、切り捨てやすい非正規雇用は増えて労働需要は増えたかに見えるけれど、学歴社会は残り、自己都合退職者の再就職は依然厳しい。
少子高齢化を理由に、若者への負担を増やすような社会はそのうち破たんするだろう。
グローバリズムの波に乗って生活を謳歌できる人は限られていて、その波に乗れない人は自己責任で片付けられ放置される。
そして金はひとところに集まり、タックスヘイブンで蓄財されて二度と貧者には渡らない。
これが格差の固定につながっていくとスティグリッツは警鐘を鳴らすのだ。

さらに経済への苦言は続く。
ダニエル・コーエンの『経済成長という呪い』(東洋経済新報社)である。
国家全体として経済成長を推し進め、それが功を奏したとしても階層によって賃金が伸び悩む事態が起こっている。
先ほど指摘した「中間層」の没落である。
アメリカではすでにその現象が顕著であり、だからトランプ氏が大統領選を勝ち得たのだった。
この書物は「ポスト工業社会が存続しうるのか?」という問いかけを私たちにしているのだ。
科学史を紐解くと、科学が農業社会から工業社会に転換させたというように見える。
農民は産業革命によって衰退した。
しかしその余った労働力を工業化社会はうまく使うことによって、成長も雇用も確保された。
ところがデジタル時代の昨今、労働者は職探しに困難を極める。
世の中のデジタル化は雇用を生み出さないのだ。
技術革新が雇用を生み出す時代は終わったとコーエンは言う。
ほぼ無人の工場、オフィス、AIが仕切る流通…そりゃそうだろう。
いわゆる中間層のルーチンをデジタルが奪ってしまったから、中間層が没落したのだと。

とはいえAIにも弱点があった。
サービス業はAIに任せられない部分があるのである。
最近、接客ロボなるものをスーパーマーケットや量販店、ホテル、展示場などで見かけるが、「掲示板に手足が付いた」だけの「案山子(かかし)」である。
対話するが、老人向けの慰安以上のものではない。
囲碁や将棋の世界で革新的な実績を上げるAIだけれど「二歳児とサッカーする」ことは極めて苦手と言わざるをえない。
「感覚と運動の調整」は人類の進化の過程で長い時間をかけて会得したものであり、その複雑さはピッチャーが「シュートとスライダー」を投げ分けることにたとえられ、AIには今のところ無理難題になってしまうらしい。
結論から言えばもはや「ポスト工業化社会」では成長は見込めないのである。
また別の視点から、現状に満足して生きていけばいいのではないか?という指摘もできる。
成長ではなく現状維持、または昔の生活に回帰するような生き方も選択肢としてあるだろう。
「幸福」の価値観は人それぞれであり、ブータン王国を例に出すまでもなく、成長を必ずしも欲しなくても生きていけるものと信じたい。
後退的だと批判されようとも、反グローバリズム、反工業化社会、右肩下がり経済を欲してもいいのではなかろうか?

原発の電気を使い、インターネット社会の恩恵を受けながら、そういうことを言うのは間違いだろうか?

私は今後も考えていきたい。