川上弘美の『センセイの鞄』を読んで、彼女のもう一つの作品『真鶴(まなづる)』も読みました。
これも母が買ったものでしょう。
おそらくもう、がんで入院していた頃だと思います。
あたしが、母の要望を聞いて買ってあげたのではなかったかな?
この表紙を覚えているから…
でも、あたしはついぞこの本を開くことはなかった。

まったく不思議な作品です。
夫に失踪された妻の語りでつづられるのです。
冷めた目で見れば、メンタルを病んだ女の妄想だと片付けられそうだけど。
女の名は「京(けい)」といい、その娘を「百(もも)」といいました。
察しのいい人なら数の大きさを表す言葉が名になっていると感づくでしょう。
それ自体は物語に何の影響も与えませんでしたが。

女の夫は「礼(れい)」といい、日記のような手帳を残して、どこかへ行方をくらましてしまったらしい。
それがほかに女を作ってのことなのか、自殺旅行だったのか判然としないのです。
なぜ京と娘を捨てて礼が出奔したのかは最後まであたしにはわからなかった。
どうやら、京は礼が別の女と一緒にどこかで暮らしているのではないかとか、もうこの世にいないのではないかと思っているらしいことは読み進めるうちにわかってくるが証拠はないんですね。
表題の「真鶴」は熱海と小田原の間に位置する相模湾に面した付近の地名のようです。
京(けい)は住まいの首都圏と真鶴とを往還するのね。
舞台はほぼ東京の自宅と真鶴に集中しています。
「真鶴」が京の心をとらえて離さないのは、礼の残した手帳にこの文字があったからにほかなりません。
失踪直前のカレンダーの日付の欄に「真鶴 21:00」と書かれていたのでした。
唯一、彼の失踪の手掛かりになりそうな「地名」です。
最初は礼を追って真鶴に向かう京だけれど、彼の足取りは杳(よう)としてつかめません。
本当に礼は、真鶴に来たのだろうか?

真鶴で京は、ある「存在」の声を聞いたり、姿を見たりする経験をするの。
冒頭「歩いていると、ついてくるものがあった」と始まるのがそれ。
そう、京の後をつけてくるものがあるというのです。
ストーカーか変質者か?読者はいぶかしむが、すぐにそうではないことが明らかになります。
幽霊やもののけの類(たぐい)であるような…それとも京の妄想の産物か…
しかしその存在は女の姿をして、確かな声で京と会話をするんですね。
女は礼のことを知っているのではなかろうか?京にそう思わせるけれど、その「女」は「知らない」とにべもなく答えます。

礼が失踪したのは娘の百(もも)が三つくらいのころらしい。
だから百は父親のことを良く知らないんです。
父としての存在感は希薄なんですね。
母がその「父」を追って「真鶴」にたびたび行くことを百は許しています。
そして同居している京の実母も、なかばあきらめて見守り、孫の百との生活を楽しんでいます。
百は思春期を迎え、難しい年頃になっていたし、母を疎ましく思うようになっていました。

京は自身が「母」として娘に抱く、得体のしれない異物感をぬぐえないの。
手放しで「かわいい」と思えた時期はとうに過ぎ、自分とは異なる生き物として成長を遂げていることにある種の「距離」を感じています。
息子ならまだしも同性の娘には嫌悪感さえ抱く京でした。
これは、わからなくもない。
あたしには子がないが、そういう心情は想像に難くないんです。

一方で、京には青茲(せいじ)という仕事上の関係で愛し合うようになった男性がいます。
青茲は編集者であり、京は作家という関係のようです。
青茲には妻子があり、京とは、いわゆる不倫関係であるわけ。

京は礼のことが吹っ切れないにもかかわらず、青茲に愛を求めます。
青茲は京が、夫のことが忘れられないでいることに不満を残しつつも、つき合っているんですよ。
京は男に抱かれることで、慰めを得ようとしますが、ますます孤独になるのでした。

京は淫乱な女ではありません。
しかし、自分勝手な情の深いところがあるんです。
礼にも一途(いちず)を求めていました。
そうして何度も愛を確かめさせたのよ。
京は不安だったんだよね。
礼はそれを、うっとうしく思ったのかもしれないわ。
だから、ふらりと京の前から姿を消したのかもしれません。

あたしは、礼にしろ、京にしろ、どこか「子供」の部分を残した「大人」だったように思います。
あたしがそうだから。
百は、だからそんな大人を反面教師にして、したたかに青春を謳歌しているの。

京は、いったい何が不満なのだろう?
何が足りないと思っているのだろう?
もし、礼が「ただいま」と戻ってくればすべて解決するものなのだろうか?

子供が親離れしていくことに対して疎外感を持つのは、どの親も経験することです。
そういった事どもが、夫に「捨てられた」女の心を一層、病ませるのでしょうか。

京にまとわりつく「女」は、真鶴で彼女をあちこち連れまわします。
それは彼女のインナートリップなのかもしれません。
真鶴という地が、だんだん架空の世界にも思えてくるのです。
本当は彼女はどこへも行かず、脳内旅行をしていただけなのかもしれないのよ。

彼女も男に愛撫されると、体の芯が「滲(にじ)み」「潤って」「する」のです。
これは川上弘美のセックスの表現のようです。
おもしろことにこの作家は「目合う(まぐわう)」という言葉も使うのね。
京は自分の両親の「目合い」を幼い時期に目撃したらしい。
それがショックだったのかどうかは言及されませんが、何らかのインパクトを彼女に与えたことは確かなようです。
つきまとう「女」は、どうやらこの世の者ではなさそうで、真鶴で遠い昔に生きていた子だくさんの母だったようです。
土地で生まれ、土地の男と親の言うまま一緒になり、たくさんの子を産み、その育児の辛さから解放されたのは乳飲み子の双子を海に放り投げたからだと言うのです。
それが本当のことか、そういう気持ちに一瞬でもなっただけのことかはわかりません。
かつて、京が百を孕み、産んだ時も、作家の経産婦ならではの克明な描写で、あたしなどは興味深く読みました。
お腹を痛めて産んだ子を手放しで愛せるのが母だという妄想を、あたしは抱いていたましたが、どうやらブルーに、冷静に、嫌悪感さえ抱いてわが子を見ている母親もいるのだなと感じ入った次第です。
昨今、幼児虐待に母親が加担することがニュースになっていますが、あながちわからなくもありません。

母性とは、理想と現実の前で揺らいでいるものなのです。

あたしの欲を言えば、もっとセックスを描いて、女の性(さが)をさらけ出して、精神を病んでいく状況を描いてほしかった。
淡白な割に、京は男を欲しがるのに。
青茲との関係は、京の「穴を埋める」関係なんだなと思ったわ。
つまりは気の合う「セフレ」なんだなと。
作者の川上さんが、古いタイプの人間に属しつつも、自身の体が正直なところも知っている人なんだろうなとあたしは勝手に想像しています。

なかなか読ませるお話でしたよ。