「時の洗礼を受けていない本を読むのは時間の無駄である」とは、『ノルウェイの森』でワタナベの先輩、矢沢が垂れる名言だ。

いささか乱暴な言い様だけれど、この溢れる情報の中で、自分の「選球眼」が稚拙な場合、何を取捨選択すべきなのか迷うものだ。
だから矢沢の言(げん)が心を刺す。
本好きな者への諫言として。

実際、時を経てなお読み継がれる本には、「魅力」があるはずなのだ。
時代に捨て去られる「駄本」とは違う輝きを秘めている。
あたしは「駄本」にも魅力を感じる方なのだけれど…

矢沢の言葉は、食通「ブリア・サヴァラン」が『美味礼賛』で述べている「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間であるかを言いあててみせよう」という名言に匹敵するほど強い言葉だ。

ちなみに「食通」とは「グルメ」のことであり、「グルマン(健啖家、大食漢)」とは異なるのでご注意を。

本の世界にも「食通」な人がいるのは、広く知られていて、そういった人の「書評」は有用である。
人間、そんなにいろいろな本を手にすることは、経済的にも、時間的にも無理がある。
そこで「本の食通」を何人か持っておくのは無駄ではない。
矢沢ならそう言うかもしれない。

矢沢がそんなに立派な人間かどうか『ノルウェイの森』を読んで感じてもらったらいいが、単なる「ええかっこしい」に過ぎないのもまた若気の至りだ。

少なくともあたしは「なにをえらそうに」と思ったほうだから。
とはいえ、そういう時期は誰にでもある。
青く、かぶれやすく、傷つきやすい年ごろが。

本は不思議だ。
歳を経て再び開く本に、あらたな魅力を見出すことがある。
それは旧友に相まみえたときに感じるものと似ている。
あの時には見えなかったものが、見えてくる。
忘れていたものがよみがえる。
思い出したくない恥ずかしいことまでも、本はささやき始める。
「やめて…もう」
思わず声を出してしまいそうになり、両手で口を押えるあたし。

秋の読書は特別なのだ。
移ろいやすい季節ゆえに、そうなのだ。
少女が公園のベンチに座って本を開いている。
息が白くなりかけの、木々が葉を落とし始める季節のはざまで。
あたしは色とりどりの落ち葉を蹴りながら、曇り空の下を逍遥した。

帰り道の平和堂(スーパーマーケット)で安いウィスキーを買った。
whitehorse

ホワイトホースはあたしの口に合うので、良く買うのだ。
ロックでも、ストレートでも、この季節ならお湯割りだっていける。
スコッチらしいスモーキーフレーバーが、行ったこともない彼(か)の国に思いを馳せさせる。

英国ではスコッチはほぼすべて輸出に回されている。
外貨獲得の手段として、資源の少ない島国が取った手段として至極当然だったのか?
いや、大英帝国は世界を股にかけ、貿易国家として君臨していたではないか?
快速帆船(ティークリッパー)カティサーク号とサーモピリー号の「紅茶輸送レース」に代表されるように、大英帝国はインド、セイロンに莫大な茶葉プランテーションを展開し、英ポンドは世界通貨になっていたのではなかったか?
東インド会社に端を発する、英国の世界市場制覇がスコッチにも及んでいる。
アメリカへの英国からの移民は、まず現地のネイティブアメリカンの土地の権利を奪うことから始まった。
その時に使われたのがスコッチウィスキーだったと言われる。
つまり、ネイティブアメリカンの酋長(地権者)を酒で酔わせ、権利書を騙して作らせて土地を奪ったのだと。
その後アメリカではネイティブアメリカンにとどまらず、下層の人民は酒の溺れて、散財し、犯罪者になり下がり、「新世界」とあこがれをもって謳われた大陸は絶望が渦巻く無法地帯になった。
力とカネが支配する新大陸での為政者は「禁酒法」を定め、浄化を図ったがかえって密造酒を生む結果になった。
ギャングなどがその利権を争い、そんな中で中南部から特産のトウモロコシを使ったバーボンウィスキーが生まれる。
西部劇に出てくる荒くれたちが呷(あお)る酒がバーボンだった。

あたしは琥珀色の液体の向こうにそういった事どもを想う。
酒は甘く、苦い。
自分が弱い時には、ひどくむせて、拒否される。
酒とあたしの関係は日々異なることに気づいていた。

酒も「時の洗礼」を受けているのだった。