かつて私は、いろんな業種の人たちと賀詞交換会で会ったものだ。
普通の勤め人ならば、それが当たり前の年始の行事だった。

それはともかく、そういう席で新年のあいさつの後、たいてい二次会に誘われたりする。
私が気が進まなくても同席している上司も一緒なら、自分だけ辞退するのも憚られるだろう。

場所を変えて、酒も入り、打ち解けて宴もたけなわになるころ、
「近頃、クラシックを聴くようになりましてね、この間もウィーンフィルですか、ニューイヤーコンサートを一昨年あたりからNHKで観ておるんですよ」
などと、いささか照れながら、それでも自慢げに得意先の課長さんが私に言うのだ。

「はぁ、それは、高尚ですね」
「まあ、家内がピアノを少しやってましてね…」
と、のろけだす。
そうすると、どこやらの副社長クラスの重役も話に割って入ってきて、
「マーラーなんか、わしは好きだね。娘がねウィーンに行っておってね…」
とか、
「わたしは、最近は、もっぱらブラームスなんですよ。なんといいますかダイナミックで繊細で…」
と、話がクラシック談議になってくる。
こんな中で「私はチャイコフスキーなんかが好きなんですよ」とでも言おうものなら、
「子どもクラシックだね」
と、小ばかにされるのがオチだ。
つまり、彼らはグスタフ・マーラーもヨハネス・ブラームスも名前しか知らず、ニューイヤーコンサートも最後のラデッキー行進曲の手拍子だけがお目当ての「俗物」なのだった。
だからもし話題が、ブラームスの何番の交響曲で、指揮はだれそれで、どこのオケだとかになってくると、とたんに表情があやふやになって目が泳ぎだす。

たぶん、一流の人物が決して読まない『プレジデント』とかいう雑誌で仕入れた「これだけは聞いておきたいクラシック」みたいな特集記事で仕入れたであろう「知の鎧」を「後ろ前に着せられた」企業戦士の悲しい姿を、私は残念に思ったものだ。
そんなもので自分を飾らずに「仕事人間」を表に出して勝負すればいいのに…

つまり日本は社交界が貧弱なのだ。
西洋では社交界デビューを若いころにして、自分を磨く。
話術、気の利いたジョークで場を盛り上げ、また自分も上げる。
知性に裏付けられた社交性は、人格をより高いものにするはずだからだ。
悲しいかな、日本人にはこれがない。
だから「付け焼刃」の酒の席の話題になってしまう。

私は会社も辞め、ばかばかしい賀詞交換会に参加しなくなって久しいが、この時期になるとあの忌まわしい世界が、よみがえって身震いするのだった。

そういえば、名刺も交換しなくなった。
会社を辞すると名刺を持たないでいいと思ったが、一年も経たないうちにオリジナルの名刺を作る必要性を感じてプリンターで作ったことがある。
肩書など勝手に創作して、ややおちゃらけた名刺だったが初対面の方に覚えてもらうのには重宝した。

逃避行のさなか、いまさらながら私は名刺を持っていないことに気づいた。
たぶん、これからもいらないだろう…


雪国の道

北国のバスの車窓の曇りを指で拭きながら、私は今後のことを考えた。
降りしきる雪が街を覆い、みな音もたてずに沈黙している。
柏木勝(まさる)を追って私は鳥海山の見えるこの街にやってきた。
彼は私を陰で支えてくれた恩人である。
素性のはっきりしない男だが、任侠の好漢である。
「自分は馬鹿で不器用ですから」と、決して出しゃばらなかった。
柏木は鳥海山の麓の街「遊佐(ゆざ)町」の西村翁という仙人のような人物と暮らしていると聞いている。
遊佐は日本海に面し、霊峰「鳥海山」を背にしている。
この山は「庄内富士」とか「出羽富士」とも呼ばれる名山である。

低気圧が去り、晴れると見事な山容を見せてくれるそうだ。
鳥海山

私は昨年の暮れから北国の街を転々としている。
どこも居心地が悪いのだ。
どうすればいいのだろう?