その晩も、囲炉裏で名物「芋煮」と「きりたんぽ」をご馳走になった。
御酒で酩酊した私は、「曲がり屋」の奥の部屋に寝床を延べられて寝かされた。
旧家の天井は高く、深い闇を伴っていた。
太い梁は人が歩けるくらいもあった。

もう何日も帰京していない。
私は大きなため息をついた。
「あの家には帰りたくない」
我ながら身勝手だと思う。
夫の両親に、障碍者の彼を押し付けて、私は逃げてきたのだ。
そのことを私は、柏木と西村翁に打ち明けた。
先に義母さんは、真帆ちゃんを寝かせつけるために奥に引っ込んでいた。
口数は少ないが、西村翁の重い言葉を私は反芻していた。
「逃げても、逃げられやせんよ。なおこさん」


私は、障碍者を貶(おとし)めるつもりはない。
しかし私は、疲れ切ってしまった。
彼らにも尊い人権があるのはわかるが、私にだってある。
私も人間だからだ。
彼の頻尿と排便の世話で夜も寝られず、言語障害の彼とは会話とてままならず、彼の言うことが理解できないわけではないけれど、回りくどく、私が辛抱できない。

言うてはならないことだけど、介護疲れは社会損失だと思う。
すべて「滅私」で事に当たらねばならない。
社会はカネでいささかの援助はしてくれるが、肝心の労力は家族が担う。
数あるサポートはスカスカで使い勝手の悪いものばかりだ。

最近「ヤングケアラー」という言葉を聞く。
十代から二十代の未婚の子が親や祖父母、もしくは兄弟の介護に当たり、学業や将来の夢を犠牲にしているという深刻な話なのだ。
片親で、その親がメンヘラで家事不能となり子供にすべてを負わせて、あげくに子供に「至らない」と文句を言う理不尽。
認知症の祖父母と共働きの両親の間で、子供が学業そっちのけで介護を担う現実。
脳性まひの兄の世話を献身的にする妹の涙ぐましい姿。

私のような人生の終わった人間が、介護に忙殺されるのはある意味、仕方のないことではあるが、前途有望なる若い諸君が、このような境遇で我慢を強いられるのは社会にとっても大きな損失である。
介護は誰かが担わなくてはならないとはいえ、誰のサポートも得られず、一人の青少年に負担がのしかかる事態は社会がなんとかしなければならない。
しかし、調査や問題提起を行政の福祉関係者はするものの、なんら手を差し伸べはしない。
こういう事態が身近に起こっていることを報道され、見聞きした人も、あくる日には忘れ去ってしまう。
社会は「これではいかん」と言いながらも「何もしない」のだ。
基地問題において沖縄と本土の人間の距離間と同根な問題がここにもある。
当事者意識が希薄なのだ。
当事者でないのだから仕方ないのだろうか?

社会福祉の現場では「利用者に寄り添う」だの、聞こえのいいことを言うのに、介護職員には効率を求める。
なのに、自分が障碍者になったらということを考えて、相手の立場に立つのが介護の要諦だと説くのだった。

なるほど、立派な考えだ。
やってみたまえ。
三か月で考えが変わるだろう。
自分が聖人君子にはなれないものだと思い知るだろう。
それほど人の世話をするのは、自己犠牲を強いるものだからだ。
おまけに「感謝されず」に「暴言を吐かれる」などの、心が折れる材料には事欠かない。

私にだってやりたいことがいっぱいあったのだ。
(障害を得た彼にも、それはいっぱいあっただろう)

この無情は、どこにぶつければよいのだろうか?

わたしはいずれ、彼のもとに帰るのだろう。
やはりそうするのだろう。

これを読んだ人は「そうしろ。それが一番だ」と言って安堵するだろう。
もし逃げ続けるならば、私は「人非人」と謗られるだろう。

どっちが無責任だろうか?
あなた方にとっては、どうせ他人事なのだろう?

世の中、無責任野郎ばかりなのに、高いところから正論を垂れる。
偉い人の多いことよ。

弱者は援助を要する。
援助する者にも援助が必要だ。
社会全体で弱者を助けるのは、社会主義だと言われる。
あげくに、左翼だと言われる。
国家のために弱者を切り捨てる右翼よりはましだと思うのだけれど。

さしずめ、「自分は弱者ではない」という奢りがあるのだろう。
だから「弱者は無駄飯食い」だとか「自己責任」だと言うのだろう。
それとも「弱者」には種類があって、「悪い弱者」と「良い弱者」があるとでも言うのだろうか。

生活習慣が悪く、メタボで脳梗塞を起こし、障碍者になった人間は「自己責任」だから助けなくていいとか。
先天的な障碍なら、惜しまず助けるのが人道だとか。
たとい先天的でも、そんな子ができるとわかって出産する者には援助しないとか。
私も、書いていて「えげつない」と思うけれど、そういうことから「目を背けるな」と言いたい。

世の中には弱者があふれているのだ。
生きておるのだ。
科学的には「障害は損失だ」と数字でちゃんと出るかもしれない。
その分、人の手、社会の手を煩わさなければならないからだ。
倫理の面からは、そういうことを敢えてするのが人間社会だと教える。
無償の愛というものだ。

理想はそうだ。
親なら子に無償の愛を授けるのが当たり前だと「倫理」は教える。
すると、そうすることができない親は「資格なし」とレッテルを貼られ、自虐の心に苛(さいな)まれる。
倫理は「当り前」と「常識」で成り立っている。
そこから外れると「不倫」となり、もはや救われない。
これを無情を言わずしてなんと言おう。

一度愛し合った他人である配偶者を、「病める時も、健やかなる時も」愛さなければならない「倫理」に縛られることは苦痛だろう?
でもそれが「人の道」、つまり「人倫」なのだと説く。

ことほどさように、倫理とは「負える重荷」なのだ。
そうしなければ人間でないのだ。
畜生なのだ。

わたしは「重い荷」を背負って歩く決意をしたのではなかったか?


一人、北国の旧家の暗い天井を見つめながら、酔った頭が次第に冴えてくるのを覚えた。
火鉢の熾火しか暖のない小部屋で、私は涙をためていた。
吐く息が白く、濃く、天井に消えていく。

「明日、帰ろう…」