差別感情は何から起こるのだろう?
よそ者に対する差別は「よくわからない者」への恐怖感からくるのだろう。
自分と肌の色や目の色が違い、話す言葉さえ異なる「外国人」には忌避の感情が起こりやすい。

外観ではわかりにくい在日中国人や韓国・朝鮮人の場合でも、その素性が明らかになった時点で、日本人の中で差別が芽生えてしまう。

われわれ同胞でさえも、部落民だとか、低所得者だとか、低学歴だとか、田舎者だとかで差別したがる。

反対に、差別する主体に目を向けると、実はたいして金持ちでも、良い家柄でもない、どちらかと言えば何の取り柄もない無名の人だったりする。
ネットで匿名で差別感情を露(あらわ)に投稿する人間は、実は丸裸にすると小さな人間に過ぎない。
「人の下に人を作って」満足を得る小人(しょうじん)どもだ。

何か抜きんでたものを持っている人は、そういうことに現(うつつ)を抜かさない。
簡単に言えば「暇じゃない」のだ。
Twitterで拡散させている人々はどうやら暇を持て余しているようだ。
いや、すべきことがあるのにもかかわらず、Twitterの中毒になっている。
そうしてなにやら「満足」を得ているのだろう。
誹謗中傷で「満足」を得るとは、なんともさもしい人々ではないか。
いじめをする学生もそうで、自らの任務を棚上げして、非生産的ないじめ行為で満足したがる。
虐待も同じだろう。
それをする主体に心の病が巣くっていることに気づいていない。
前向きな人間は、自分のことで忙しいから、誰かを差別したり、いじめたりする暇なんてないはずなのだ。
さしずめ、トランプ大統領は「暇」な人らしい。
ツイートに余念がないからだ。

ネットで誤った情報が拡散し、それによって不当な差別を受ける人が増えているのは由々しき問題である。
沖縄県民への中傷、生活保護世帯への中傷、不倫をしたものへの中傷、在日韓国・朝鮮人への中傷、キラキラネームをつけるDQN親子への中傷…枚挙にいとまがない。
一度、非差別者の立場に立って考えてみたらどうだろう?
美しい沖縄に生まれて、天真爛漫に育って、ある日、本土に仕事を求めて出ていったら、言われなき差別を受けた…
「言っていることがわかんねぇよ。標準語でしゃべってくれないか?」
「くっそまずい食い物だな。こんなのいつも食ってんのか?」
なんてことを言われたらどう思うか?
在日の子が「キムチ臭い」だの「チョゴリで街を歩くな、キモイ」と言われて泣いていたのを、私は許せない。
キラキラネームの子が就職するとき、その履歴書で一発アウトだったのも泣ける。
その子には何の責任もないじゃないか。
「しかし、そういう子が育った環境がDQNだろうから、うちの社には合わないな」と平気で言う。
いったいDQNってなんなのだ?
元ヤンキーで有名大学に入ったら、珍しがられるってのも歪んだ学歴社会の一端ではないか。
ひどいことに、僧侶の息子さんが難しいお名前で、それが面接官には理解できず「キラキラ」だと勝手に解されてアウトになったのも混じっていた。
面接官の頭が悪かっただけだったのだ。
福沢諭吉は『学問のすすめ』において、学ばざる者は差別されても仕方がないと書いた。
これは学ぶ機会があるのに学ばない者のことを言っている。
今日、格差の固定で学ぶ機会すら奪われている青少年には当たらない。
彼らには、我々が学ぶ機会を与えなければならない。

部落差別もそうだ。
なかなかなくならない。
言い伝える人がいるからだ。
「あそこは、むかし、特殊部落だったんや」と子供に教える親がいる。
憲法改正を言う前に、人権問題を解決しなければならないのではないか?
憲法十四条を今一度、熟読していただきたい。

私は、内外小鉄委員に人権の大切さを学んだ。
内外さんに会う前は、私はひどい差別をしていた。
若い人たちは、まだまだ発展途上だから、これから良いことも悪いことも学んでいくはずだ。
いや、学ばねばならない。
間違った情報で他人を貶めたり、差別しないように学ぶのである。
また、人を誹謗するには、相当の根拠を明らかにしてすべきである。
批判は大いに結構。
正々堂々としよう。
もっと言えば「人」を批判するのではなく、その人の行動や言動について批判するものだ。
その人の内心や、生い立ち、家族などについて他人が立ち入るものではない。
それは批判の対象ではない。

内心では差別感情が湧きおこることが、よくあることだ。
それを表明してはいけない。
嫌悪感、好き嫌い、これは内心で思う分には如何ともしがたい。
だれにでもある。
理性は内心を制御する。
理性を鍛えることは、人として重要なことだ。
美醜や貴賤で差別感情を起こさないように訓練するのが理性ある人間である。

思想の左右、信教の自由、学問の自由、職業選択の自由。
日本人なら、当然わきまえている自由思想だ。
他国ではこういう自由がないところもある。
自由な思想を許されている日本人は幸せである。

私がwawabubu Inc.を興し、社会資本主義を唱え、死後の世界を信じて生き切ることを勧めるのは、言われなき差別のない世界を夢見ているからである。
生きている我々の苦しみの原因のほとんどは、他人から受ける差別だと私は思う。
病苦や貧困さえも、差別さえなければ乗り切れる。
差別がないということは「思いやり」や「愛」があるということだ。
支え合えれば、戦争は起こらないし、災害に立ち向かうことができるからだ。