青い海を眺めながら、私は、この世の中から戦争がなくならないのはなぜなのかと、自分に問うてみた。

ある人は「闘争本能」だという。
またある人は「主権の行使だ」ともいう。
「恐怖心から戦うのだ」と言う人もいた。

この灯台の書庫にはクラウゼヴィッツの『戦争論』という大著があった。
私はこの書物に一つの解答があるのではないかと期待し、開いてみた。
※『戦争論』は森林太郎(森鴎外)が日本に紹介したと言われているが、それよりも前に日本に入ってきていたという説もある。おそらく、軍隊(陸軍)の教育目的に本書を用いたのは森であろう。

戦争とは暴力である。
そして、戦争には攻撃と守備があるが「攻撃が最大の防御(Attack is the best form of defense.)」だからといって「先制攻撃」を許すと、最後通牒なしに卑怯極まりない「奇襲」が許されてしまう。
「やられる前にやれ」が戦争や喧嘩の真実だが、それをやっては、おしまいなのである。
※この諺は『孫子』にも見える。

「攻撃は最大の防御」は、戦争に限らず、戦争を模した遊戯である球技やチェス、将棋にも言えることだが、こういったゲームは厳格なルールのもとに行われる疑似戦闘であるから許されるのだ。

戦争には自衛のための戦争と、攻撃のための戦争があり、前者は平和な世界において鎧(よろい)を纏(まと)って握手を求める外交姿勢に見られ、後者は「ならず者」への先制攻撃として存在する。

そして「侵略戦争」は、今日の国際社会の通念では許されない。
現状の国境線を変更するような「侵略」は厳に自重すべきで、過去を持ちだして武力で「線引き」を改めるようなことがあれば、各国はやめさせるように仕向けなければならない。

まずは当事国同士で平和裏に話し合いで解決にこぎつけるか、少なくとも棚上げにして新たな争いにしないように努力することが肝要である。

そうすると「交戦権」は自衛戦争にのみ許され、侵略戦争には認められないことが理解される。
侵略がなければ自衛もないのだが…

不幸にして戦争になってしまった場合には、早期終結の糸口を探りつつ被害を最小限に食い止めるような作戦を立て、とりあえず停戦協定を結ぶまでの努力として戦闘を行うべきだ。
作戦は、戦術的な「ピンポイント攻撃」を旨とし、決して戦略的な大量虐殺の作戦を立ててはいけない。
また相手国民や関係のない市民を「質」に取るような作戦を取ってはならない。
当然、だまし討ちはしてはならず、必ず予告して、手の内を明かしてから戦闘状態に持ち込む。
「先制攻撃」がほぼ許されないのはこういう理由からだ。
戦闘の勝敗よりも、事態収拾に努めるのである。
敗戦国の立ち直りを世界の国々が支援し、賠償で苦しめたり、難民を作らせてはいけない。
敗戦国の政治に責任があるのであって、その国民には直接的には責任はないと考えるのである。
恨みの連鎖を作ってはいけない。

何としても、市民を巻き込まず、戦闘員同士の戦いに終始すべきである。
なるべく、戦闘の場は被害の少ない荒野か海上で相まみえるようにすべきである。
相手国の兵士を殺すのが目的ではなく、降参させ、自主的に投降させるように将兵の人権を尊重しなければならない。
捕虜の扱いは人道的であるべきで、彼ら一兵卒にはなんら責任はなく、私刑(リンチ)などは絶対に行ってはならない。
公海上の漂泊者、傷病兵は敵味方問わず「赤十字」の精神で戦闘から避難させ、安全に保護・治療させるべく取り扱わねばならない。
相手国将官の逮捕と尋問は紳士的に行い、虐待・拷問は絶対にしてはならず、黙秘権を認めなければならない。
戦争犯罪人の裁きは国際法廷で国際法に則って行われなければならない。

そうすると、戦争とは、限定的にやむを得ず行われる「緊急避難」ないしは「正当防衛」で説明しうるものであり、もはや世界戦争や核戦争、化学兵器の戦争は想定されない。
国際紛争を解決する手段として暴力を使ってはならないからである。
先ほど述べた「やられる前にやれ」の考えを捨て去らねば平和は程遠い。

戦闘による私怨は禁物である。
とはいえ仲間や家族を相手国に殺されたら、恨みを持つなということ自体、難しいことだ。
だから戦争をしてはいけないのだ。
将兵を慰安するために婦女子を使役することのないように、兵に軍紀を遵守させなければならないことも付け加えて置く。
軍紀の基本は「奪わず、犯さず、殺さず」である。

私には、平和主義、非暴力主義がいかに大切かということが『戦争論』を読んではっきりした。
核による抑止力で得られる平和は、本物ではない。
私は、自衛する必要のない世界が訪れることを切に願う。

『戦争論』は、私が左翼活動をしていたおりに、マルクス主義を研究する際にかじったことがあった。
エンゲルスがクラウゼヴィッツを評価しており、レーニンもそうだったからだ。
毛沢東は本書を利用し、革命戦争を有利に進めたと言われる。
社会主義国家にとって、クラウゼヴィッツは「戦いの書」として、もてはやされた。
もちろん自衛隊でも本書は『孫子』とともに読まれているはずだ。
戦争をする者にとっては、どうやって勝つかという指南書なのだから仕方がない。

しかし、読み方いかんによっては、戦争は避けうるということがはっきりするし、またそうすべきだという結論が演繹されるはずだ。
『孫子』でさえ「戦わずして勝つ」ことが最上の方法だと述べている。
それが『戦争論』の正しい読み方だと私は思う。