ユイスマンスは『さかしま』において、主人公デ・ゼッサントを通して、教会の、あるいは宗教の欺瞞性をぶちまけた。
私は、その議論から、わが仏教にも通じる宗教の弱点を垣間見た。

本書「第七章」では、「教会は忍耐と悔悟と自己犠牲の精神を説き、キリストの血まみれの傷を示すことによって、心の痛手に包帯をかけることを教え、神の特権を保証し、悩める者に天国の最良の部分を約束し、人間に苦しむことを勧め、生贄となり、貧者や虐げられた人々にとっては慈母のごとき存在となり、圧制者や暴君にとっては脅威すべき存在となる」と、デ・ゼッサントをして指摘さしむる。

教会の「来世信仰というあやふやな救済手段」に反発を感じるデ・ゼッサントだったのだ。
まったくもって浄土真宗のような教えである。
そして、ショーペンハウエルを引いて「地上に生きることはまさに一つの悲惨である」の言葉に同意するのである。
ショーペンハウエルは、貧者が苦しいのはもとより、富者も豊かであるがゆえに倦怠の不幸があると説き、その救いの方策を示さなかった。
また、彼は「原罪」という不愉快な理論を皆に押し付けはせず、ろくでなしを保護し、愚か者を助け、子供を踏みつぶし、老人を馬鹿にし、罪咎めなきを罰するようなこともなかった。
「原罪」とは、我々日本人が知っている「性悪説」のことだろうか?
人は罪を背負って生まれてくるというのだろうか?
私には理解しがたいがキリスト教ではそう考えるのかもしれない。

とにかくユイスマンスないしは、デ・ゼッサントはキリスト教の教会が行う詐欺的行為が我慢ならないと告発しているのだった。

私は、門徒としてそういう宗教に疑問持っている者である。
仏教も、ご多分に漏れず厳しい修行を信者に強いる「小乗」と、門戸を広く開ける「大乗」に分かれていることが知られている。
「仏教原理主義」は小乗仏教を本筋と認め、大乗は「方便」で扱う。

なかでも、阿弥陀如来の願を信じ、「南無阿弥陀仏」を唱える易行のみで他力を頼る門徒衆は、大乗仏教徒の典型であり、小乗から見れば「規制緩和」にほかならない。
ではなぜ「規制緩和」に走るのだろうか?
それは信者を増やすためである。
そうしないと宗教団体は経営難に陥るからだ。
「悪人こそ救われる」という甘言に惹かれて信者は、われもわれもと集まるのだ。
そうしてお布施も集まるという寸法である。
これは「方便」なのであるから、仏教指導者は、なんら問題ないのだと自分たちに言い聞かせることも怠らない。

そしてここが大事なのだが、門徒は「現世利益」を求めてはいけない。
すべて死後の世界で浄土に生まれ変わることを約束されると信じさせられるのだった。
なんとも壮大な詐術である。

現世を生きることは、まことに辛いことばかりである。
思い通りになることなどほとんどない。
それを具体的に救うことは、これまた難しい。
だから「代償」として「死後の世界で良きことを授けよう」と騙すのだ。
そのためには喜捨し、仏教に尽くさねばならない。
それができないのなら、せめて朝晩に念仏でも唱えておけという。
そうして死ぬまで頑張って生きなさいと説くのだ。
すると社会は底辺から、うまく回るようになる。
辛抱強い人々が、社会の歯車を回しだすのだ。
為政者が宗教に近しいのはそういう理屈が働いているからだろう。
政教分離は、ことほど左様に容易ではない。

私はそっと本を閉じた。
ランプの灯を落とすと、満天の星が降るようだ。
神はいないのだろうか?
創造主とは、デ・ゼッサントが言うように、こんな世界しか創れない出来損ないなのだろうか?