私は歴史が好きなのだが、それは学生時代に「科学史」を少し学んだからだった。
それ以前は歴史は黴臭くって好きにはなれなかった。
そう、老人が好むものだと勝手に思っていた。

人類史とか科学史となると人類の思索の変遷が読み解けて、自分自身の成長と重なり、黴臭い歴史とは全く異なる印象になる。
数学の人名定理なども、おそらく彼が見つけたのではなく、それ以前にほぼ知られていたのだろうと思うのだ。
ヘロンやピタゴラスはたしかに偉人ではあるものの、他人の手柄を自分のものにした可能性だってぬぐえない。

私のブログは軍事的なものに偏重しているが、これも科学史が根底にあるからだった。
近代兵器は科学の粋を集めたしろもので、航空機などはその最たるものだということは論を待たないだろう。
空を飛ぶという超人的発明は、有史以前から失敗続きであっても、人々は追い続けた。
あきらめないと事は成るもので、オリンピック選手が、みな口にするのもうなずける。
果たして人類は月にも到達する飛翔器具を手にしたのである。
人工衛星「はやぶさ」は行方不明になっても、かすかな望みをつないで地球に帰ってきたではないか!

そういった科学が日本人に新たな力を与えたのが明治維新からだと私は思っている。
政治的な歴史上のことがらは、どんな本に当たってもだいたいのことは同じだけれど、なかんずく、司馬遼太郎と吉村昭の書物は日本の近代史を概観するのに極めて読みやすく、有益だと感じている。
よく「司馬史観」が批判されるが、それは読む側が批判的に物を見る力をつければよい事であって、司馬遼太郎氏を批判するには当たらない。
また吉村昭の綿密な取材態度は新聞記者出身の司馬氏を凌駕するほどのものがあり、『戦艦武蔵』とそのメイキング本である『戦艦武蔵ノート』にその業績を垣間見ることができる。
吉村氏はまったくの文系人であるにもかかわらず、科学的なものの見方を十二分に発揮され『零式戦闘機』にもそれは見て取れる。
私は、政治的な側面、群像ドラマとして司馬遼太郎の作品を推すが、モノの側面とそれを懸命に作り上げる情熱の人々のドラマとして吉村作品を推す。
戦争など、あってはならないのに、戦争がなければ生まれなかったモノや方法、思想が現実としてある。
このことは冷静に受け止めなければならない。
戦争は欲望のぶつかり合いから生まれるので、その欲望を形にするためにモノを発明するのである。
敵国に勝つために、より優秀な性能の兵器を作り上げ、より効率的な戦略を編み出す。
軍事にも経済的、地勢的なリサーチが取り入れられ、戦争はより巧妙で残虐な方法がとられることもある。
そして実戦を交えるリスクを取らずに、抑止力の兵器で競争し、いかに強い「盾(イージス)」かを見せつけることにやっきになている。

歴史の記述は「灯台」たりうるか?
私は、その仕事は歴史家や作家が今後も連綿と行うべきものだと思っている。
それは、やはり「灯台」となるものだと信じて疑わないからだ。