森鷗外が明治の文豪であることはだれもが認めるだろうが、軍医としてはどうだろうか?

日露戦争後、彼が陸軍の軍医総監にまで上り詰めたことは良く知られている。
軍医総監は陸軍省に属し、人事権を有する医務局長でもあったという(1907年)。


陸軍では当時、脚気(かっけ)を訴える兵が多かった。
一方で、海軍ではそういう話は聞かなかった。
これは兵の糧食の内容、ことに主食に違いがあったからだ。
当然、軍隊内の栄養管理は軍医総監の監督で行われるはずだ。
陸軍は陸軍で、海軍は海軍で糧食、献立を指導決定してきた。

陸軍では、白米6合が兵一人当たりの一日の摂取量とされ、海軍ではそれが麦や玄米を混ぜたものだった。
この違いが脚気の原因であったと、当時もうすうすわかっていたのに、森鷗外(森林太郎)は頑(かたく)なに、白米にこだわった。
その理由は、当時、麦・玄米食に脚気予防の科学的根拠がないことだった。
もう一つの理由として、口減らしで次男坊以下の男子の徴兵の入隊動機が「軍隊では銀シャリが腹いっぱい食える」というものだった。
鷗外はそれを裏切りたくなかったとも言われている。
命を賭して、苦しい訓練にいそしむ兵にせめて白米を腹いっぱい食わせてやりたいという、慈悲心が根底にあったともいわれる。
しかし、日露戦争では、まともに歩けぬ脚気の日本兵がロシア軍の攻撃にバタバタと殺されるという惨劇に陥ったのである。
かつて、森は、ドイツ留学でコッホという細菌学者に師事したことで、脚気が感染症の一種だと妄信していた節があった。
著名なコッホがそういうのだから、間違いないと思っていたのだろう。
森は実は医師ではあっても、疫学や栄養学には明るくなかった。
当時の医学では、そこまで進んでいなかったというのが実情で、それのみで鷗外を責めるのは酷だという意見もある。
しかし、同じ時期に海軍では麦飯・玄米食で脚気発症を克服しているのである。
理屈はわからないが、結果的に良好ならば、陸軍でも取り入れればよいではないか?
それどころか、鷗外は声高に麦飯食を批判したのである。
鷗外の変なプライドが許さなかったのだろうか?


彼は軍の内外でも、文学者、堪能なドイツ語をあやつるエリートとして知られていた。
クラウゼヴィッツの『戦争論』をドイツ語で講演したというのだから恐れ入る。

もともと、森林太郎は、年齢を偽って若干十二歳で今の東大医学部にあたる東京医学校に入学する神童ぶりだった。
軍人としてのプライドも高く、彼が軍服を身にまとっているときに礼を失する対応をした友人を叱りつけるなどのエピソードが残されている。

文学者として広い顔を持ち、慶應義塾大学文学科顧問に就任し、永井荷風を主幹に推して『三田文學』を創刊したことなどは現代の大学入試にも出題されるほどだ。

私は『即興詩人』や『舞姫』『ヰタ・セクスアリス』『高瀬舟』『山椒大夫』を読んだ。

明治の文豪といえば漱石か鷗外が双璧だけれど、わたしはやっぱり漱石が好きだ。
鷗外は硬すぎる。
かといって理論派だとも言えない。
情に流される普通の男でもある。

鷗外の「軍の偉いさん」のイメージが抜けきれず、その立場で何を言っても、嘘に聞こえるのだ。
これは私の偏見ですけども。

なお、鈴木梅太郎がビタミンB群のもとになったオリザニンの発見(当初は米糠抽出物)が脚気の予防に利く栄養素であると示唆した論文を出したのは1910年のことだった。
さすがに鷗外も頓首するほかなかったろう。

しかし、戦後でも脚気は日本の国民病として残り続けた。
白米至上主義、銀シャリ至上主義が脚気をもたらしたといっても言い過ぎではなかろう。
1960年代になってビタミンB製剤の「アリナミン」などが普及して脚気は撲滅されたという。