日本の奨学金制度はおかしいと思う。
教育の機会均等を与えるとして、貧困学生へ支援金を給付するのが本来目的のはずだ。

ところが奨学金の名を借りた貸付になってしまっている。
だから、学生は大学卒業後も初任給を弁済に使わざるを得ないため、就職浪人でもしようものなら債務者に転落する。

なぜ貸付型が多いのか?
給付型ではなぜいけないのか?

給付型だけだとバラマキになるので、かえって不公平になるから厳しい成績規定がある。
成績優秀者にしか給付型奨学金が給付されない。
それでは、普通に大学に通う学生には奨学金制度は高嶺の花となり、貧困学生を助けることにはならないからだと説明される。
さらに財源が限られるので、給付型だと対象者を少なくしなければならない。

しかし私は、大学という最高学府において、成績優秀者へのインセンティブとして奨学金があっていいと思っている。
逆に言えば、成績の振るわない学生に奨学金など必要はなく、どうしても行きたければ自費でやっていくべきで、それができないなら猛勉強して成績優秀者になるか、諦めるかの選択を強いても良いと思っている。
大学はそんなに甘い世界ではない。
学歴を得て、将来安定な生活を手に入れるだけの目的で大学生活を過ごすのなら、それは個人の自由であるから自費で行うべきである。
だれも大学に強制されて入るものではないからである。
憲法の保障する「学問の自由」とは「自由気まま」という意味ではない。
大学は競争社会である。
学問をしないのなら去れと言われても仕方がない。
アルバイトしなければ大学に通えないというのは本末転倒だ。
貧乏でも成績優秀ならば給付型奨学金にありつけるのだから。

普通にしていたら、何も得るところはないのが大学なのだ。
大学を辞めて、さっさと仕事を探すがいい。
働くことは国民の義務だし、そのほうが人生のためになる。
確かに、この国には学歴社会というものはある。
それが格差を生み出しているのなら、それを嘆く前に、成績優秀者になれと言いたい。

いささか厳しいようだが、日本人の大学へ行く動機がどうも高い学歴を得ようとか、人間に箔をつけようというさもしいものを感じるからだ。
機会均等が、ややもすれば「大学に行かないと就職がない」ということへの解答だとすれば、それは間違った思想だ。
学歴社会は「考えない人間」を育てる悪弊だからだ。

それでも、もし家に金銭的余裕があるのなら、私は大学に行くことをお勧めする。
そうでなければお勧めしない。
あの四年間は無駄ではない。
モラトリアム期間として人間の仕上げをするのにうってつけだからだ。
私の場合がそうだった。
私は行きたいから大学に行ったのであって、学歴を得たいがための動機はなかった。
「真理の探究」と言えば口幅ったいけれど、そういう気概で大学の門をたたいたのだった。

奨学金は、成績優秀な人材に給付されるものであり、そういう人を応援し、将来の日本に役立つ人として育て上げる糧になるものだと私は信じている。
機会均等を与えるものだが、そこには受ける側の資質も問われるのだ。
明治時代の「官費留学」や、田舎の篤志家が貧乏で優秀な人材に私財を投じて、見返りを求めなかった事実など、そういうものが本当の人材育成なのではなかろうか?
猫も杓子も金をかけてよいわけではない。
それでも「貸付」は良くないと思う。
借りるぐらいなら、大学をあきらめて、さっさと天職を見つけよと言いたい。
「本気で、裸一貫で社会と対峙しなさい」とね。
そうすれば学歴なんてものは、いささかの利益にもならないことがわかるはずだ。