1852年11月3日 祐宮(さちのみや)親王様ご誕生(のちの明治天皇、睦仁:孝明天皇の第二子)

吉田松陰は松下村塾で、攘夷論(外国の言いなりになるな)を唱える急進派で、幕府には危険人物とされていた。
幕府が日米修好通商条約を勅許なしに勝手に結んだことに激怒した松陰は、倒幕に傾いていくのである。
1859年10月27日 松陰は安政の大獄に連座したとして大老井伊直弼の命により捕縛、斬首刑死する。
江戸城桜田門外で井伊直弼が水戸藩士らに斬り殺された(1860年3月24日)。
1863年8月15日薩摩藩は、前年の生麦事件(現在の横浜港近くの生麦村を通過中の島津家大名行列前を英国人が知らずに横切ったため、島津家家臣が切り捨てた事件)を発端とする賠償問題で英国艦隊が横浜から鹿児島湾に襲来し、これを「攘夷」とみなした薩摩藩軍が砲撃して薩英戦争を引き起こす。
補償交渉は難航するも、英国側通訳アーネスト・サトウと福沢諭吉の翻訳の功で島津久光らと英国海軍との交渉が成立した。
ただ、この戦争によって、薩摩とイギリスは急接近するようになったという。

1864年8月20日 禁門の変(長州藩士が天皇に嘆願書を渡そうと武装して禁裏に殺到。「蛤御門の変」とも)祐宮の外祖父、中山忠能が長州と通じていたとして蟄居処分。
吉田松陰の唱える「尊王攘夷」を旗印に長州(藩主毛利慶親)は京都守護職の松平容保(会津藩主)と衝突、禁裏の蛤御門を武力で突破し、京都守護・薩摩藩連合軍によって鎮圧、長州藩は以後、朝敵とされ、「王政復古の大号令」の発令まで復権できなかった。

このころ、薩摩藩と幕府および会津藩は「公武合体論(天皇と幕府がともに政権を担う)」で親密であり、むしろ薩摩藩と長州藩は対立していた。
坂本龍馬(亀山社中)の暗躍で、犬猿の仲であった薩長が同盟を結ぶことで国内は混沌としてくる(1866年3月ごろ)。

1867年1月30日 孝明天皇崩御、2月13日に祐宮が践祚(満十四歳)※践祚(せんそ)と即位(即位)は内容は同じだが、内外に明示するときは即位という。祐宮は10月12日に即位の礼を行った。
このころから討幕の動きが活発になりはじめる。
幕府vs討幕派という構図ができたのがこのころである。
薩摩藩を中心に、公卿を巻き込んだ討幕派が明治天皇を担ぎ上げて討幕の手はずを整えようと動き出した。
薩摩藩はもとから外様大名として、徳川幕府とは勝手に琉球や清国などと交易し蓄財していた。
独立心の強い外様大名で、江戸から遠いことを奇貨としてやりたい放題だった。
徳川幕府も手をこまねいていたわけではなく、薩長の動きを察知し、独自に朝廷に働きかけていた。
1867年11月9日に徳川慶喜(最後の将軍)は、討幕派の目的を解消すべく先手を打って大政を奉還(政権を天皇にお返しする)する奏上を行った。翌日に天皇は慶喜の奏上を勅許した。
同年12月9日に討幕派は幕府が名目上無くなったので「王政復古の大号令(武家の統治ではなく天皇による統治の復活)」を発した。これで明治新政府が樹立したのである。この時より長州藩が復権した。
新政府軍(官軍)と佐幕派(旧幕府勢力)との衝突が激化し、戊辰戦争が始まる。
1868年1月27日 鳥羽伏見の戦いが勃発。
明治維新が革命だと言われるのは、この戦争で、京都、大坂から東や、北に向かって戦闘がくりひろげられ、たくさんの血が流されたからだ。
しかし、フランス革命やロシア革命と違う点は、殺戮に終始するのではなく、敗者が恭順の意を示せば許された。
現に、徳川慶喜は西郷隆盛と勝海舟の会見を受けて江戸城を無血開城(1868年3~4月)することで命を長らえ、五稜郭の戦い(1969年6月27日箱館戦争終結)で敗れた榎本武揚などの佐幕派が新政府でも重く用いられたことが挙げられる。クーデターであったが敗者は必ずしも殺されなかった。

1868年4月6日 戊辰戦争のさなか、明治天皇は「五箇条の御誓文」を発布し、新しい政府の方針を打ち出した。この年の秋に慶應四年だった元号が1月1日(旧暦)に遡って「明治」と改められた。

五箇条の御誓文

この御誓文は、議会によって国政を運営し、天皇の万世一系による国家観を打ち立てる内容で、後の教育勅語や軍人勅諭にも深いかかわりのある御誓文である。
1969年(明治二年)から江戸城を皇居に遷都がなされた。
明治維新によって、たくさんの武士階級が平民になり、その不満がいずれ爆発するだろうことは予想しえなかったのだろうか?
廃藩置県ののち、多くの武士階級(下級武士)は明治政府の軍隊に組み入れらるか、官僚に取り立てられるなど、武家以外で生計を立てるかしたが、洋式軍隊になじめない兵などは、進まぬ待遇改善に業を煮やし、征韓論を反対され下野していた西郷隆盛に与(くみ)して彼のもとに参集する元武士たちがいた(明治六年の政変)。
不満はついに西南戦争となって、再び九州は戦乱に巻き込まれてしまう。
明治新政府にとって武士階級をいかに御するかを問われる事態となった。

今年は明治新政府が成立して150年の節目ですので、もう一度、明治天皇を軸に振り返ってみました。