幸せについて、私はこう思うのである。
私が「幸せ」もしくは「幸福」を感じるときとは「すべての時間を自分の思索に使えるとき」であると考えるようになった。
幸福とは「満たされた欲望」と言い換えることができるものの、無欲の幸福もあるのだ。
うまく言えないが「物欲を満たす」よりも「精神的な満足を得る」ことに私の中では幸福の価値が変わってきたのだ。

物に満たされたからか?
さほど、物持ちではないし、お金持ちでもない私は、欲しい物とてあまりない。
長く生きていると、物欲はなくなるものだ。
車を買ったり、小さな旅行などは、ほぼやった。
映画も観たし、本も読んだ。
たくさんの男性を知ったし、女性も知った。
そういう物欲は際限がない事に気づいてしまったし、そういうことに自分が追われることは幸福ではないと断言できる。

フロイトは幸福を追求することで人は病んでいくと説いた。
アリストテレスが著した『ニコマコス倫理学』以来の幸福追求者としての人間の姿は、もはや私の中にはない。
西洋の哲学者が、それこそ何度も問いかけた「幸福」について、東洋の禅師は「引き算」で答えた。
「無欲」の「欲」である。
そんな言葉があるのかどうか知らないが、私はそう思うのだった。
ストア学派に近い考えかもしれないが、私の場合、もう少し、怠惰な「無欲」である。
ストア学派はアリストテレスの幸福主義からさらに進んだ考えにたどりついた。
極限まで欲望を捨て去るのだと。
欲望を満たそうとする努力が無益なものだと切って捨てたのがストア学派であるそうな。

フロイトに戻るが、彼は、人が欲望を満たそうとして、ついにそれが達成されたあかつき、またぞろ欲が湧いてくるので幸福の追求は際限がないから、人はそれにとらわれて病んでいくのだというのだ。
また、幸福を感じるのは一瞬で、不幸を感じるのは長きにわたるものだとも言っている。
なるほど、そうかもしれない。
幸福に至るまでの努力が人間を動かす原動力であって、達成してしまうと萎えてしまうのだろう。
燃え尽きた人は、やる気を失ってしまうか、また、新たな幸福への道を見つけるのかどちらかだ。

庶民は小さな幸福や達成感を数多く感じながら生きていけば、それが結果的に幸福な人生だったと思えるのだろうか?
一発当ててやろうというような「山師的」な幸福追求を、夢見がちだが、それはかえって幸福を感じることから遠ざかるのだろう。
アリストテレスらの「幸福主義」は、十八世紀にもなるとジェレミ・ベンサムに「快楽主義」を唱えさせた。
彼は、私に言わせると「話せるおっさん」であり、なかなかユニークな考えを持っていた。
アリストテレスの「幸福のために~」を言い換えて「快楽のために人間は生きている」とし、「もっと快楽を求めようではないか」と、なかば、はしゃぎ気味に言い放ったのだった。
ベンサムは同性愛にも寛容であったし、イギリス人が「堅苦しい」のか「緩い」のか、シェークスピアの芝居を見ているようで面白いと感じた。
ベンサムの「快楽計算」という妙な考え方は「功利主義」と言われ、後にJ・S・ミルの「快楽の質」へと展開していく。
快楽の程度を計量しようとしたのは、科学が発達してきた時代の波に乗ったベンサム流の論法だった。
ミルはしかし、仮に計算で求まった快楽がそのまま受け入れがたい低俗なものならどうするのだ?と警鐘を鳴らしたのである。
ミルは冷静な男だった。
ミルは「満足した豚より、不満足な人間である方がよく、満足したタワケ者より、不満足なソクラテスであるほうがよい」と喝破した。
至言である。

しかし、私は「満足したタワケ者」であるほうがいい。
もういいのだ。
手の届く幸せで。
それすら、感じ得ない余裕のない毎日…
つらいと思えば、とことん辛く、「あと五分」の惰眠が幸せに感じる。

デカルトが『方法序説』の中で、「世界の秩序よりも自分自身の欲望を変えるようにつねに努める」というストイックな考えを述べているが、運命に逆らわず自分を抑える考えも素晴らしいと思うのである。

スピノザが「人間は欲望する存在である」と説いて、そういう欲望こそが「善」であると言ってくれる。
欲望を持つから人なのだ。
よこしまな「欲望」は真の欲望ではないのだそうだ。
また動物的な本能のおもむくままの欲望も、善の欲望ではないということになる。
本能の欲を含めるなら「動物は欲望する存在だ」と言うことになるからだ。
最高の善は「神の認識」だといい、神を信じ切る欲望こそ知性の完成を意味するのだとスピノザは教えてくれる。
もはや哲学は宗教を超えたのか?
いや、哲学は宗教の真理に漸近するもの、収束するものだということなのか?

灯台の下で私は信じてみたいと思った。
遠くを貨物船が夕日を浴びながら水平線をなぞっていた。