あたしがご飯もお水も口にしないから、お父さんが会社を休んであたしを動物病院に連れて行った。
あたしは病院が嫌いだ。
だからキャリーに入るものいやだった。
だって、病院に行くときにはかならずキャリーに入れられるから。

あたしはどうしちゃったんだろ?
体が重くて、だるくて動かないの。
やっぱり病気なのかな…

お家を出る時、お父さんもお母さんもなんだか心配そうだった。
お母さんは体が不自由なので車いすに座って見送ってくれた。
お父さんの車にあたしは乗せられて出発した。
あたしは車も好きじゃない。
だって病院の時にしか乗せてもらわないんだもの。


病院にはイヌのみなさんでいっぱいだった。
ネコはあたしだけみたい。
病院のいやなにおいがキャリーのスキマから流れ込んでくる。
あたしは鳴いた。

ずいぶん待たされてあたしたちは呼ばれた。

お父さんがお医者さんに「きのうから食べないし、水も飲まなくって、じっとしてるんですよ」
「ほう、どれどれ」
看護婦さんに押さえつけられてお医者に針を刺されて、血を取られた。
おなかをぎゅうぎゅう押さえられた。
「おしっこがずいぶん溜まってますね。がまんしてたのかな?」
そう言うとお医者さんはペットシーツを広げてあたしをそこに乗せ、お腹を絞られたから、たまらない。
ジャーっとおしっこがシーツにほとばしった。

その後、おなかの毛を剃られて、あたしは鳴いた。
「エコーをとります」お医者が言う。
「おとうさん、おとうさん、たすけてよ、やだよ」あたしは必死に訴えた。
冷たいぬるぬるをおなかに塗られて、変な機械を押し付けられ、こすられた。

おなかに太い針も刺された。
あたしは声を出すのもつかれてしまった。
気がついたら点滴をぶら下げられて、かごに寝かされていた。

お父さんとお医者さんが何か話している。
あたしはキャリーの中でうつらうつら眠くなった。
長い長い時間がたったようだ。
キャリーが持ち上げられた。
「帰るよ。みすず」
お父さんの声は、こころなしか元気がなかった。
あたしは「点滴」というものをされてちょっと体が元気になったように感じた。
お家に着くと、ご飯を食べたいと思った。
おしっこもしたくなった。
もりもり食べるあたしを見て、お父さんもお母さんも「よかった、よかった」と言って頭をなでてくれた。


病院から帰って、変わったことが一つある。
お父さんがとてもやさしくなった。
あたしを抱いて離さないの。

ぽたり…あたたかいしずくが頭に落ちた。
お父さんの目から涙が落ちてきたのだ。
あたしを抱きながら泣いているのだった。

ネコは涙を流さない…
でもわかる。
お父さんが何で泣いているのかって。
もうすぐ、お別れなんだろうな。
あたしは遠いところにいっちゃうんだろうな。

「みすず、お前がこの家に来たころのことをおぼえているかい?まだ赤ちゃんでね、それでも一生懸命に小さい手でトイレの砂を掻いてウンチをしたんだよ」
お父さんが涙声であたしに言う。
あたしだって覚えてる。
もうずいぶん前のことだ。
兄弟から離されて、一人であたしはこの家に迎えられたの。
その日から、新しいお父さんとお母さんができた。
お母さんはやさしかったよ。
一緒にお布団で寝てくれた。
最初は「だめよ」と言っていたのに、すぐに入れてくれたの。
暖かかったなぁ。

ある夜、お母さんが倒れた。
救急車というのかしら、大きな音をさせて車が停まり、白い服の人間がどやどやと入ってきて、お母さんを連れて行った。
お父さんも行ってしまった。
真っ暗な部屋にあたしは一人ぼっちにされた。
お昼になって、お父さんだけが帰ってきた。
今日のように元気がなかった。
「お母さんがね、大変なんだよ。大きな手術をするんだ」


お母さんが帰ってきた時は、お母さんの体は半分動かず、もうあたしを抱くこともできなかった。
お母さんはその日からベッドに寝たままで、起きたら車の付いた椅子に乗って、お父さんに押されて動くことしかできなかった。

しゃべるのもたどたどしく、でも「みぃちゃん」とだけは聞き取れた。
あたしはお母さんが変わってしまったんだと思った。
でもだんだんと、やっぱりお母さんなんだと思えた。
においもみんな前のまんまなんだもの。

あれからずいぶんたった。
お父さんによれば、あたしの年齢は、今年で二十歳だという。
ネコでこんなに長生きなのはめずらしいんだそうだ。

あたしは、今日もお父さんに抱かれている。
もう少し、いっしょにいようね。
もう少し…

***
うちの飼い猫「みすず」にはリンパ腫という診断が下った。
リンパ腫には大きく二種類があり、低分化型と高分化型である。
低分化型はリンパ球などの細胞が未熟で癌化も早く、急速に進行するので余命が極めて短い。
高分化型はリンパ球などの細胞が成熟していて、癌の進行も緩やかであり、抗がん剤とステロイド剤の投与で余命は12か月から24か月ほど伸びる。
とはいえ、癌には違いなく、助かる見込みはない。
高齢の猫に多い病で、ある意味仕方のない運命なのだった。
みすずの場合、病院の生検では高分化型の診断だったが、培養機関に出して詳しい判断を待たねばならない。
余命が伸びても、その大半が苦しむだけの一生なら、安楽死も視野に入れなければならない。

この物語はあたしの創作だが、真実でもある。
いまみすずはあたしの腕の中で、穏やかな寝息を立てている。
この時間が永遠に続けばいいのに…