バー「アングラ・ベース」は、いつになく人が少なかった。
私と、「長官(マスター)」と「オスカー・5」という若い客だった。
「オスカー」は、たぶん三十にはなっていないと思う。
義勇軍の軍服を着ていたが階級章が剥がされていた。
「ノーベンバーさんは、軍事モノが好きなんだね」
「ええ、まあ」
私がジャック・ヒギンズなんかを読んでいたのでそう思われてもしかたがない。
中(あた)らずと雖(いえど)も遠からずだが…
「オスカーさんは、軍属?」
「落ちこぼれだけどね」
そう言ってバーボンをあおる。そしてはげしくむせた。
「だいじょうぶ?」
「失敬…」
口元をぬぐいながら、青い目を私に向けた。

1939年9月1日 「ポーランド回廊」の割譲を求め、スロバキアがナチスの後援でポーランドに侵攻し、翌々3日にはポーランドと同盟国の英仏がナチス・ドイツに対し宣戦布告。同月17日には、ソ連もポーランドに侵攻した。これを第二次世界大戦の勃発とする…

私はオスカーと空想の旅に出た。

「独ソにとっては「不可侵条約」を締結(8月23日)した直後の事件であり、両国が仕組んだ戦争ともとれる。ヒトラーとスターリンがポーランドを分割しようとしたのだと」
オスカーが問わず語りに私の横で口を開いた。
寒々としたバルト海を望みながら、私たちは立っていた。
「1940年5月 ナチスがベネルクス三国を破り、マジノ線を侵してフランスを占領、ナチスの傀儡(かいらい)、ペタン元帥がフランス首相になって、7月にヴィシーに政府を移したわ」
私が続けた。
「そうだ。ダンケルクまで英仏連合軍を押しまくり、フランスを占領したが、このころ、対英作戦「バトル・オブ・ブリテン」に苦戦していたドイツは、敗北を認めざるを得なかったんだけれど、ヒトラーはそれを認めなかった。ヒトラーはソ連をやっつけることに興味が移っていったのだろう」

「翌年(1941)6月22日 バルバロッサ作戦が敢行されたわ。ナチス・ドイツのソ連への侵攻ね」
「ドイツの「独ソ不可侵条約」を一方的に破棄する作戦だったな」
私もうなずいた。
「長い戦いがはじまるの。ドイツ機甲師団とソ連のジューコフ上級大将率いる大戦車軍団の真っ向勝負」
「タイガーとT-34だな」
※日本人にとっては「ノモンハン事件」の赤軍総大将ジューコフとして知られる。

かつて、ヒトラーは、対立するスターリンと手を結んで世界を驚かせたが、これはまったく一時的なものに過ぎないパフォーマンスだったのだ。
ヒトラーは、まずフランスを斬り、返す刀でソ連を斬ったのである。
スターリンは米英にドイツを背後(ソ連から見て)からも攻めてもらえるように画策する。

ヒトラーの野望は、ロシアの地に広く住まいする劣等民族「スラブ」を放逐し、ここにドイツの「王道楽土」を樹立するのが目的だったわけで、彼にとってマルクス主義者のヨシフ・スターリンなど邪魔な存在にすぎなかった。
ドイツの欺瞞工作でスターリンはまんまと騙されたのである。

ソ連では、親ドイツ政策を粛清の口実にしており、ドイツ批判をすることはソ連政府を批判することになるという複雑な事情があった。
(まさに今の日本が、アメリカを批判をすることは日本政府を批判することだと言って憚らない政府の態度に酷似する)

そのため、ナチスを疑うことなく、スターリンも条約が守られるものと信じていたらしい。

ナチのゲッベルス宣伝大臣が、世界の目を「バトル・オブ・ブリテン」に向けるように発信していたこともスターリンを瞞着するには十分だったのではなかろうか?

1941年2月にはロンメル戦車軍団が北アフリカのリビアに侵攻する。これは前年9月にムッソリーニの命でイタリアがエジプトに侵攻し、イギリス軍から反撃されたことへの「助太刀」である。
「イギリス軍が守るトブルク要塞をドイツ軍が囲んで落とそうとするが失敗したんだ」
オスカーが話しながらベンチに掛けて、私に、隣に座るよう促した。

「キレナイカをイギリスに奪還され、ドイツ軍はエル・アゲイラまで撤退を余儀なくされる」
話はアフリカに飛んでいた。

オスカーが訥々と、遠い記憶を探るようにしゃべる。
ときおり、言いよどんで、頭を抱える。
彼の話を要約すると以下のようなことだった。

1942年1月にロンメル軍の反撃が始まり、ベンガジを占領、激戦の末、6月にトブルクを落としイギリス軍は敗退する…

この同じ年の6月12日から、アンネ・フランクの日記が始まったのだった。
翌月にはエル・アラメインの激闘が始まった。
8月から差し向けられたイギリス軍のモントゴメリー将軍は、ドイツ軍のロンメル将軍と世紀の一騎打ちに相まみえるのだった。
まさに「川中島」だ。

ここでもドイツが苦戦を強いられていたのは物資の不足であった。
補給が絶たれ、ロンメル軍はリビアまで後退させられるのである。
ロジスティクス(兵站)の軽視から当然の帰結だった。
11月にはアメリカが北アフリカに進駐してきてしまう(トーチ作戦)。

ようやく、オスカーの話はソビエトに戻ってきた。
1942年8月23日 アゾフ海に注ぐドン川をさかのぼり、水源を異にしカスピ海にそそぐ大河、ボルガ川のほとりにあるスターリングラード(現ヴォルゴグラード)は、ドイツの絨毯爆撃にさらされる。当時のスターリングラードは一大軍需工業地帯であり、ナチスとしてはここを叩いておかねばならないと考えたのだった。
多くの市民が犠牲になり、スターリングラードは廃墟と化したが、そのがれきが却ってドイツ軍の侵攻を妨げ、かつ赤軍(ソ連軍)の抵抗拠点になりヒトラーの思惑を大きく外れて、ドイツ軍は苦戦を強いられるのである。
一人で150人近いドイツ兵を狙撃した、赤軍の名スナイパー「ワシリー・ザイツェフ」も活躍した。

私たちが海岸を歩きながら、スターリングラードの攻防について語り合い、しばらく沈黙が続いた後、オスカーが再び口を開いた。
「9月になるとスターリングラードはもう冬に近づいているんだ。なのに、長引く戦闘でドイツ兵に混乱が生じる。両軍入り乱れての接近戦で、ドイツ空軍のユンカース「スツーカ」の急降下爆撃ができなかったんだ」
「12月になると「冬の嵐作戦」が始まるのね」
「雪でドイツの敗色は決定的になる」
翌年1943年早々、ドイツ第6軍は最後の攻防を戦い、ヒトラーはパウルス司令官を「元帥」にしたてあげ、最大限のプレッシャーをかけるのだった。
パウルス元帥以下第6軍に決死の覚悟を求めるものであり、最悪でも「自決せよ」という命令だった。
冬将軍にさいなまれた、ドイツ軍の傷病兵が次々に落命していく。
ドイツの士気は下がりきってしまった。
ゲーリングはパウルス元帥をテルモピュライの戦いで全滅したスパルタ軍にみたてて鼓舞し、ゲーリングは彼らに「玉砕」を命じたのだった。
もはやドイツに勝ち目はないのに、撤退は許されなかった。
2月を待たずにパウルス元帥は投降した。
パウルス元帥は赤軍の将官からウォッカをふるまわれると、「わが軍を破った、あなた方赤軍に乾杯」と自ら音頭を取ったという。
2月2日、こうしてスターリングラードの攻防は終わった。
クレムリンからは祝砲が轟いたという。
ナチスはラジオで「スターリングラードのドイツ兵は皆戦死した」とベートーベンの『運命』とともに放送し、ゲッベルス宣伝大臣は三日間の喪に服したという。
赤軍に投降したドイツ兵は捕虜となったが、過酷な徒歩の雪中行軍と収容所生活でほとんどが死亡し、数千人が助かったのみであった。
日本兵のシベリア抑留と全く同じ運命をドイツ兵もたどったのであった。

1944年6月6日ノルマンディー上陸作戦が敢行され、ドイツの敗色は一層濃くなるのだが、その話はまた今度いうことで、私たちは「アングラ・ベース」のカウンターに時間旅行から舞い戻った。
1944年8月1日でアンネの日記は終わっていた…

「やあ、オスカーにノーベンバー、おかわりはどうだい?」
長官が両手をカウンターについて、優しい笑顔で尋ねてくれた。