第二次世界大戦でドイツが勝利したと言えそうな戦いはフランス占領とダンケルクの戦いだろうか?
もちろんロンメル戦車軍団のトブルク戦もドイツの勝利(1942年6月)に数えられるが、のちにエル・アラメインで惨敗したため、ドイツの攻勢は転換点を迎えたと考えられる(1942年秋)。

さて、ナチス・ドイツがスロバキアをそそのかしてポーランドを侵攻したのが1939年9月だったが、その翌年5月にはベネルクス三国への侵攻を企てる。
5月17日に早くもドイツはマジノ線を破ってフランス北部を占領し、守る英仏連合軍はダンケルクへ押しやられた。
1940年5月末から6月にかけて、ベルギーとフランスの国境近くのフランス最北の街ダンケルクからチャーチル首相は英仏の連合軍兵士を救出させる作戦に出るのだけれど、ドイツがこれを殲滅(せんめつ)せんと、ありったけの戦車と航空兵力を差し向けて、英軍をダンケルクに追い詰めるのだった。
しかし、この脱出作戦(ダイナモ作戦)はほとんど犠牲者を出さずに成功したのである(約三万人のイギリス兵が捕虜に取られたらしいが)。
戦闘としてはドイツ軍の勝利と言えるが、迅速な撤退で人的損害を最小限にできたイギリス軍は以後の戦いを有利に運ぶことができたと評価できる。

ドイツは7月にパリに無血入城し、フィリップ・ペタン元帥に臨時政府を建てさせる。
このころからヒトラーの美術品掠奪とユダヤ人狩りが激しくなる。
もともとポーランドで虜(とりこ)にした多数のユダヤ人の始末に困り、虐殺してしまおうという「えげつない」考えから起こった悲劇である。
ドイツには昔からユダヤ人に対する蔑視があった。
これはドイツに限らないのだが、キリスト教徒にとってイエスを十字架にかけた裏切り者「ユダ」の末裔がユダヤ人であるとして職業や住む場所を奪い、ことあるごとに虐待してきたのであった。
※聖書を読めばわかるが、ユダの子孫がユダヤ人と言うことではない。ユダヤ人はヘブライ人ヤコブの子孫であることが明記されている。しかし裏切り者ユダの子孫がユダヤ人だという誤解がナチス、ことにヒトラーの中で醸成されたのかもしれない。ただ「ユダ」の名前はユダヤに由来する。

同じころ、ドイツ空軍(ルフト・バッフェ)は「バトルオブブリテン」に挑む。
ハインケルHe-111とメッサーシュミットによる英本土爆撃である。
迎え撃つ「スピットファイア」はドイツ機を蹴散らし、秋までにヒトラーに英本土空爆をあきらめさせた。

ヒトラーは独ソ戦に注力する方向転換をし、対英作戦よりも東方、南方(北アフリカ)作戦、大西洋の米英補給ラインの分断に目を向けたのである。

たとえば、戦艦「ビスマルク」による「ライン演習作戦」は翌1941年5月18日に、ヒトラーの不安をよそにリュッチェンス司令長官は北海へ向かわせることになった。
夏至近くなればこそ、北極圏にまで航海することができるからだった(ただ流氷と霧が多いので易しい航海ではなかった)。
「ビスマルク」の行動は早々と英海軍に察知され、スカパフロー基地から艦隊が出動し追い回されることになる。
そんな中で「ビスマルク」の巨砲が英巡洋艦「フッド」を轟沈させたことは、世界を刮目させた。
このニュースは遠く日本にも伝わったのである。
のちに日本軍にマレー沖で沈められる運命の英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」も「ビスマルク」追跡に参加していた。
プライドを打ち砕かれた英海軍は躍起になって「ビスマルク」と僚艦「プリンツオイゲン」を追いかける。
とうとう英海軍の艦船はフランス沖に「ビスマルク」を追い詰め、海の藻屑としてしまうのだった。
処女航海が最期となった「ビスマルク」の演習航海は、予想通りヒトラーを暗澹たる気持ちにさせ、ドイツ海軍に、大艦巨砲主義からU-ボートを使った隠密作戦に軸足を移させるきっかけになるのだった。

1942年の秋に、エジプトのエル・アラメインでロンメル戦車軍団が英軍モントゴメリー将軍らに敗北を喫し、こののちからドイツに良い話はなくなった。
明けて1943年独ソ戦の東部戦線がやばくなってきていた。
ソ連軍(赤軍)に圧されまくって、ドイツ領の東部分が占領され、戦後「東ドイツ」となってしまうきっかけを作ってしまったのだ。

1944年6月6日の連合軍のノルマンディー上陸作戦とパリ解放(8月)、同年12月のアルデンヌ森の戦い(バルジの戦い)でドイツが善戦するも「西部戦線」から撤退を余儀なくされたのである。
1945年1月16日にヒトラーはベルリンの地下壕に避難した。
以後そこから指揮を執ったらしい。
ソ連軍のベルリン侵攻が激しくなり、ヒトラー狩りに躍起になっていたわけだ(ベルリン市街戦)。
4月22日に、衰弱しきったヒトラーはようやくドイツの敗北を認めたという。
彼が側近の軍医に自殺の方法を聞き出していることからも、かなり精神的に病んでいたようだ。
盟友ムッソリーニが市民になぶり殺しにされ、ガソリンスタンドに逆さ吊りにされたということを聞いたヒトラーが自分はそうなりたくないとして、自殺後の自分の遺体の始末方法を側近に命じたらしい。
ヒトラーはシアン化合物を入手しており、いつでも服用するつもりだったがヒムラー(親衛隊長官)が裏切るのではと懐疑的になり、持たされた薬剤が偽物だと疑い始め、愛犬に飲ませて確認したというから「紀州のドンファン事件」みたいな結末だった。
4月30日、ヒトラーと妻エヴァが地下で自決した。
ヒトラーはエヴァに毒物を飲ませ、自らはワルサーPPKでこめかみを一撃して果てたと記録されている。
遺言通りに二人の遺体にはガソリンが撒かれ焼かれた。

日本の終戦を待たずにヨーロッパでの長い戦争が終わった。