目黒区の船戸結愛(ふなどゆあ)ちゃん(五歳)の虐待死亡事件は痛ましい。
父親が強いて覚えさせたひらがなで、皮肉にも最期の言葉を綴ることになってしまった。
それが虐待の動かぬ証拠になった。
明かりもなく、早朝の暗いうちにひらがなの練習にうちこんだ幼な子は、自分の不出来を責め、必死に許しを乞うて、叱られる恐怖と親に認められたい一心で、けなげにがんばった。
それでも、親は冷淡に、結愛ちゃんを虐(しいた)げたのである。
この鬼のような親はまたしても「しつけ」という言葉で逃げるつもりなのだ。

たしかに行政機関が助けられた事案だったかもしれないが、丸亀から東京に越してきたこの一家に対する児相の引継ぎができていなかった。
丸亀の児相は「厳重な監督、緊急保護の必要」を示唆していたのに、目黒の児相は「たいしたことはない」と、捉え方に温度差があったらしい。
またしても、児相の「甘さ」がでた。
彼らに期待することがそもそも間違いなのだろうか?
アメリカでは、虐待事案には強権的な行政の力で家庭に介入できるのだが、日本はそれをやらない。
左翼思想犯には土足で家に入るくせに…

結愛ちゃんの両親を責めても、何も解決しないのが歯がゆい。
父親にすれば、結愛ちゃんは妻の連れ子であり、継父による最も多い虐待ケースだ。
動物の世界でもそうで、自身の血を分けた子は大事にするが、そうでない子は継父が殺してしまう個体が多い。
高等な動物ほどそうだというから罪深いことだ。

しかし霊長類の頂点たるヒトには理性と知恵があり、血のつながらない、か弱い子供に対してでも慈愛を注ぐということができるはずだ。
それこそが人間だと、私は思うのだ。
弱者に冷たい態度をとる人は、自分も貶めていることに気づかないのだ。
誰かに優しくすることは、心地よいものだ。

私は子供と過ごす(自分の子ではないけれど)のが楽しい。
彼ら、彼女らの話を聞いていると、時間の経つのも忘れてしまう。
夢を語る彼らの目は美しい。
私のような老いぼれは、喜んで彼らの「踏み台」になってやるのだ。
そのためには、できる限り、何でも教えてあげるし、何時間でも一緒に考えてあげる。
私の恥ずかしい失敗も、包み隠さず、教えてあげよう。
私は反面教師だ。
それでいいのだ。

これより、なおぼん艦隊は、結愛ちゃんの弔い合戦に出航する。
虐待親に怨みの核弾頭をぶち込んでやる。
両舷全速!