校門までの間の石垣にはずらりと「たて看」が並んでいる。
大学の風景になった歩道を学生たちが列をなして歩いている。
あたしも、その中の一人だった。
「来たれ!脚光の舞台へ。ポポロ劇団」
「落研・緑蔭寄席」
「学費値上げ反対!!許すな文部省利権政治」
見上げるような大きなものもある。

「なおぼん!」
後ろから、あたしを呼ぶ声がした。
津村眞砂子だった。
「今日は一コマ目から出るの?」
「そうよ。有機反応論だもん」
農芸化学科で坂本先生の有機反応論は必修科目だった。
「あたしは二コマ目からにしょっと思って」
「じゃあ、なんでこんな早くに来たのよ」
「生協に寄ってくから」
「あ、わかった。井上さんでしょ」
眞砂子は生協で働いている、先輩の井上敦さんにぞっこんなのだった。
「違うわよ」
「隠さないでもいいじゃない」
「なおぼんにはごまかせないナ」
舌をペロリと出す眞砂子だった。

私も大学生協の事務所には、入り浸っていた。
オフセット印刷機が場所を占拠し、インキの匂いが充満して、アジトのような雰囲気の小部屋があたしたちの憩いの場だった。
煙草を覚えたり、お酒を飲んで平和について議論したり、大学生らしい空気をあたしたちは楽しんでいたのかもしれない。
そう、青春…

リーダー的な井上さんをはじめ、バンカラな六回生の八代耕三さん、「オルグの貴公子」こと藤本史誠(しせい)さん、山本純子さんは、あたしたちの姉代わりの面倒見のいい三回生、そして同級の眞砂子がいつものメンバーだった。
「たて看」書きを、あたしと八代さんで担っていた。
ポスターカラーで文言を描いていく。
八代さんは看板の板を作るのが仕事だった。
夜遅くまでベニヤ板と格闘していた。
裸電球の下で、缶ビールを飲(や)りながら、あたしたちは夏の「原水禁デモ」への参加の呼びかけの「たて看」を作成していた。
広島で毎年行われる「ダイイン」。
原爆死を追体験する、私たちの行動だ。

「なおぼんは、今の日本は戦争しないと言い切れるか?」
八代さんが、おもむろに見据える。
「う~ん、憲法があるから、直接は戦争にはかかわらないと思う」
「というと、間接的には戦争に加担すると?」
「それはなきにしもあらず…」
すると、純子さんが、
「非核三原則がなしくずしに、こわされようとしているの」
横須賀の一件を先輩は言っているのだ。
「核はすでに日本に持ち込まれている」
井上さんが裸電球の高さを調整しながら答えた。
みんなの影がおおきく揺らぐ。
「核に反対することが左翼思想なんだろうか?」
あたしは、日ごろ疑問に思っていたことを口にした。
それに反応したのは史誠さんだった。
かれは共産党系の青年部に在籍していた。
「自信をもって平和を、核不拡散を唱えるのが我々左翼と呼ばれる人間だからであって、左翼思想が条件ではないんだ。なおぼん」
「左翼の人だから平和を希求するの?普通の人もそうじゃないの?」
あたしは食い下がった。
「君の言う普通の人も、もちろん平和を享受する。が、しかし、それは棚ぼた式で待っていれば平和に過ごせるという幻想からくるものだ。平和は努力なしに転がり込んでくるものでもなく、維持のためには闘争が必要なのだ」
「おいおい、史誠よ、オルグじゃないんだから語るなよ」
緊迫した場が、八代さんの一声で和んだ。

あたしはアンリ・バルビュスの『クラルテ』を愛読していた。
史誠さんのおすすめだった。
左翼活動が「赤(あか)」と呼ばれていたころの話だった。
父は、眉をひそめたが、母はあたしのそんな「かぶれ」は「はしか」のようなものだと問題にしなかった。
「女が大学に行くとろくなことはない」
小さく、父が言ったことが、今のあたしには烙印のように心に残る。
あたしの大学進学に、父は最初、前向きだった。
けれども、あたしが左傾化するにつれ、そういう小言をつぶやくことが多くなったのは事実だった。
あたしの本棚に、化学の専門書以外に左翼思想の本の占める割合が増えてきていた。

***
NHKの朝のドラマ「半分、青い。」を見て、こんなことを思い出していた。
このドラマは、あたしも通しで観ていないで、語ることはできないが、変な話だなぁとは思う。
先天的に半分耳が聞こえないヒロインの成長を追っている群像ドラマのようだ。
まあ、人間、青春はハズイものだ。
繰り返したくないわいな。