朝鮮戦争とは何だったのか?

米トランプ大統領と北朝鮮の金正恩委員長の歴史的会談がシンガポールで行われた今日、今一度検証してみたい。


日本人には朝鮮半島を北と南にイムジン河のある北緯38度線を境に分断した戦争であり、いまだ休戦状態であると認識される。

南の大韓民国と日本は国交があるものの、北の朝鮮民主主義人民共和国とは、我が国は国交を途絶えさせている。
よく知られているように、現在も日本に在日朝鮮人、在日韓国人が多数、生活をしている。
かつて、朝鮮半島は日韓併合によって日本政府の統治下にあり、朝鮮半島の人々は自主的にまたは強制的に日本に労働力としてやってきたことも知らない人はいないだろう。

日本が太平洋戦争および日中戦争に敗北して1945年8月15日に終戦を迎えたが、朝鮮半島の動乱はそれから始まるのだった。
おりしも、世界は第二次世界大戦後の新たな局面、東西冷戦の状況に突入せんとしていた。
これは第二次世界大戦の戦後処理におけるソビエト連邦および中華人民共和国の台頭とアメリカ・西ヨーロッパ諸国の対立とみることができる。
新しい世界秩序が国際連合の下で構築されつつあったが、常任理事国としてのソ連邦と、西側諸国の力関係が微妙になってきたのである。
戦後、アメリカはマッカーシズムによる「レッドパージ(赤狩り)」が急進的に興る。
共産主義、マルキシズムに対する自由主義からの嫌悪が、冷戦に発展していくのである。

日本が戦争に負けたことで、朝鮮半島の統治を放棄させられたわけだが、このことはポツダム宣言時に盛り込まれていた。
終戦間近の8月9日にソ連の参戦で豆満江を越えたソ連軍に攻められ、半島の日本軍は窮地に立たされる。
ソウルにあった日本政府の出先である朝鮮総督府は戦々恐々となり、70万人とも言われる在留邦人の帰国をどうするかで機能不全に陥った。
朝鮮総督府は権限を活動家の呂運亨に移譲を申し入れた。
呂は後の朝鮮建国準備委員会を結成する人物である。

ソ連は日本の統治している満州国を欲しがり、ここぞとばかりに参戦して領有権を主張してきたのだった。
驚いたのは日本だけではなくアメリカもだった。
アメリカは急いで、対応策を提案した。
ヤルタ協定に基づいて、ソ連の領有権を認めるも、それは朝鮮半島のイムジン河流域(北緯38度)を境に分割占領させる提案だった。
それ以上のソ連の南下を阻止したかったアメリカである。
日本は8月15日に敗戦し、翌16日にソ連は朝鮮半島の分割占領案を呑んだ。
この時に日本の南樺太と北方四島もソ連に持っていかれたのである。
16日時点で、日本軍はまだ大陸や半島に多数残っていた。
降伏の意思表示は各占領国に行うこととされ、北緯38度以北の日本軍はソ連に降伏し、南部の日本軍はアメリカに降伏の意思表示をした。
ソ連は16日以降に北緯38度線までなだれ込んできたという。
日本兵は捕虜となり、そのままシベリア抑留生活を強いられた。
その惨状の一端は、舞鶴の記念館で知ることができる。

日本統治からの解放後の朝鮮半島で、いきなり独立運動が起こったかというと、そうではないらしい。
散発的にそういった政治活動はあったものの、統一的な動きにはならなかった。
だからこそ、半島二分という悲劇を生むことになったとも言われている。
先の呂運亨は朝鮮総督府からの権限移譲の際、交換条件として政治犯の釈放を総督府に申し入れ、受け入れられていた。
その際に釈放された人々はことごとく共産主義者であったため、呂の建国しようとした新しい国家「朝鮮人民共和国」は、彼らの合流で左傾化していたと言われる。

アメリカはこの朝鮮半島の動きをみて、このままでは共産主義国家に半島が牛耳られてしまうと懸念した。
アメリカと旧朝鮮総督府は呂らの活動を解体すべく申し入れたが、余計に混乱を招いた。
1945年9月8日に権限を総督府から与えられたアメリカ軍が仁川に上陸し11日から駐留することになる。
アメリカ軍政庁(駐留政府)は共産主義に対抗すべく、韓国人財閥の力を得、民族主義右派の活動家、宋鎮禹(ソン・ジヌ)を立てて、「韓国民主党」を立党させた。
ソン・ジヌは明治大学を卒業し、三・一独立運動に参加し逮捕され投獄生活を送った経緯がある。東亜日報の社長も歴任した論客であった。
ソン・ジヌは当時、重慶にあった大韓民国臨時政府を半島に呼び戻した。


大韓民国の基礎となる「臨時政府」は中華民国(のちの台湾政府)が支配していた上海にあり、のちに中華人民共和国となる旧満州(現東北地方)で戦っていた中国共産党が援助していた抗日パルチザンが朝鮮民主主義人民共和国の礎(いしづえ)となった。
つまり朝鮮半島の外で半島の独立活動が沸き上がっていたのである。
抗日パルチザンの歴史は、日中戦争のころからあり、もとはソ連発祥の政治活動の一派だった。
ノモンハン事件で撤退を余儀なくされた旧日本陸軍が去ったシベリアを舞台に、ソビエト共産党にならった共産主義活動が中国北東部にまで及んだのが抗日パルチザンのルーツだ。
1936年ごろ、金日成は抗日パルチザンの首領として台頭してくるのである。


ヤルタ協定では、朝鮮半島を連合国の信託統治としたかったが、結局、北緯38度線を境に、北をソ連の分割占領、南をアメリカの分割占領と暫定的に決めることになってしまった。
1946年1月に朝鮮半島の取りまとめを目的とする米ソ共同委員会は不調となった。
李承晩ら親米派の反対が大きな原因だという。
李承晩の反共意見は根強く、ソ連の申し入れをことごとく蹴ったので、盟友だった金九も李承晩から離れていってしまった。
日本の統治がなくなってしまった半島では、急激なインフレが襲い、また不幸にもコレラが流行って、民族の生活は窮地に陥り、左翼活動がより活発になってしまった。
暴動があちこちで起こり、アメリカ軍政庁は火消しにまわり、とても統治が及ばない。
1948年には北の金日成らが南への電力供給をストップさせたのだった。
南半部(半島の南、今の大韓民国)の電力はすべて北から送電されていたからたまらない。
これは日本統治時代に北の山岳部に発電ダムを作った経緯からそうなってしまったのだ。
つまり南部には高い山や川が少ないので地理的にそうなってしまったのだった。
この年の8月15日に李承晩は大韓民国を建国する。
金日成はそれに対抗して9月9日に朝鮮民主主義人民共和国を建国するのだった。
これ以降、両国は「半島統一」のスローガンを挙げるも、その実は「相手を屈服させての統一」であった。
1948年12月にスターリンはソ連の駐留軍を北から撤退させ、翌年、6月には在韓米軍を引き上げた。
どうやらスターリンはアメリカと戦争をやりたがらない様子だった。
それでも朝鮮半島のにらみ合いは続き、大韓民国のレッドパージは激しくなり、内戦状態になっていく。
1949年に中華民国の蒋介石が大陸から台湾に脱出し、大陸には中華人民共和国が建国される(10月1日)。
このころの日本はマッカーサーによる占領下にあった。
米トルーマン大統領の反共政策(トルーマン・ドクトリン)もあいまって、ますます東西の対立が高まり、ついに朝鮮半島は代理戦争に巻き込まれてしまう。
1950年6月25日に北の奇襲によって戦争の火蓋は切られた。
つまり「宣戦布告」はなかったのである。
北の兵士は軽々と北緯38度線を越えて南に攻め入った。
寝耳に水のアメリカ・韓国軍は分断され、押し戻され、一時は半島の南部まで北に攻め込まれた。
(マッカーサーがもっとも半島情勢に詳しいはずだったのに、彼は一度しか半島を視察せず、この奇襲についてもまったく予期していなかったらしい。理由は日本の統治に専念していたからだという)
国連はこの動乱に無力であり、なんら有効な手立てを打つことができなかった。
6月27日に李承晩は見せしめとして、南に捕らえた共産主義者(疑い或る者を含む)を百万人も裁判なしに死刑にしてしまった(保導連盟事件)。
韓国軍がかくも虚しく敗走させられたのは、ひとつに軍備が伴わず、旧式のものしか配給されていなかったのである。
なにしろ旧日本軍の銃器を使っていたらしい。
対して北は豊富なソ連の新鋭武器が供給され、有利に戦線を勝ち進んだ。
同じ日に国連安保理は韓国防衛のために各国に派兵を要請する(もちろんソ連は含まれない)。
6月29日、やっとマッカーサーは指揮を執るために韓国入りしたという。
70を超えたマッカーサーが見たものは、負けて逃げる韓国兵士の惨状だった。
指揮官マッカーサーはしかし、その後も日本から指示を出すというありさまだった。
10月の国連軍の仁川上陸作戦から、ようやく南軍の前線を38度線まで押し上げ、一線を越えようとしたとき、今度は新進の大国である中国の周恩来が懸念を表明する。
中国が参戦するとなると、事態は大変なことになると予想された。

占領下の日本が参戦!
マッカーサーの命により、日本の海上保安官や港湾労働者などの民間人らが掃海任務で参戦することになった。
掃海とは港湾内に仕掛けられた機雷撤去の任務で、非常に危険な仕事である。
56人もの犠牲者がでたことは、我々日本人にあまり知られていない。

そして、日本は、アメリカのバックヤードとして朝鮮戦争に武器を含む物資を供給して、戦後復興を勧めたこと、高度成長期の前哨戦として朝鮮戦争を利用したことを忘れてはいけない。
朝鮮戦争が東西冷戦の切り口になっていることから、日本がアメリカの橋頭保、前線基地であるという戦術的見地が当たり前になり、自衛隊の創設と沖縄の在日米軍の存在につながっているのである。
これも忘れてはいけない。

鴨緑江を挟んで中国軍と南軍が対峙する。
そう、毛沢東は内政を顧みず、北朝鮮に肩入れして共産主義を守ろうと兵をあげたのである。
米軍はジェット戦闘機を投入し、ヘリなどの最新鋭の兵器も後衛部隊で活躍させた。
1951年に戦争は膠着状態に陥った。
マッカーサーはトルーマンの怒りを買い、ついに解任させられる。
マッカーサーの戦略のまずさがこの膠着を惹起したのだから、仕方がなかった。
マッカーサーは中国の参戦に業を煮やし、平壌に核の使用までも言及したのである。
まさに狂気の沙汰であった。
まだ広島・長崎の惨劇が記憶に新しいころである。
1951年4月、マッカーサーはすべての軍の仕事から身を引き、東京から去っていった。
同年6月23日、ソ連の申し入れで休戦協定が提案され、7月10日、開城(ケソン)で停戦会談が開かれたものの難航した。
1952年1月に韓国の李承晩は日本に不利な「李承晩ライン」を日本海に設定し、漁業や航行の制限を加えた。
まだ日本が占領下にあって主権を主張できない状況にあることを奇貨として、竹島と対馬の領有権を主張するに至るが、対馬の韓国領有は認められなかった。
1953年、アメリカではドワイト・アイゼンハワー(愛称アイク)が大統領となり、3月にスターリンが亡くなると、板門店において朝鮮半島は分断のまま停戦協定を結ぶ運びになった。


朝鮮半島の主権をおびやかしたのは、イデオロギーの違う大国の利権であったといえる。
朝鮮民主主義人民共和国は金日成を首長とし、中国の毛沢東とソ連のスターリンの後ろ盾で武装し、立国していく。
一方、大韓民国側は、「西の大国」アメリカによって武力をもって対峙していく。
こうして今日まで、北緯38度線を境に朝鮮半島は二分されたままなのである。

もし、トランプ・キム会談が、とりあえず「休戦」を「終戦」と文言を変更する合意を得たとなれば、歴史的な会談になるだろう。