外来語はさまざまな表記が通っている。
たとえば「バイオリン」と「ヴァイオリン」
「ヴ」という表記が許されてこそ、「ヴァイオリン」が表せる。
普通「ウ」に濁点はつかない。
発音に忠実に表記を分けるという意味で「b」には「ブ」、「v」には「ヴ」を当てて表現を豊かにしたわけだ。
五十音は画一的で、剛直になるが、それがためだれでも一定の決まった表記ができる。
また「バイオリン」を「ヴァイオリン」なんて表記すると、文章の格調も上がる。

それよりも間違った表記が一般化することがある。
「プロマイド」と「ブロマイド」などがそうだ。
歌手やスターの大判の写真ポスターを「プロマイド」というが、正しくは「ブロマイド」である。
語源は銀塩写真からきていて、臭化銀(シルバーブロマイド)で感光させてモノクロ写真を現像していた名残である。
つまり「臭素:ブロマイン」の塩「ブロマイド」のことである。
私も化学を学んで知った口だ。

ほかにも「ポルチオ(子宮口)」を「ボルチオ」と誤っている表記もあるし、だって「ボルチオ」てったらゴルフクラブじゃないのさ。

昔、年寄りが「ベッド」を「ベット」、「バッグ」を「バック」と言っていた。
「フランスベット」に「セカンドバック」である。言うでしょ?
「ティーバッグ」が「ティーバック」だ、どえらい違いだよ。ホント。
しかし、あんまり違和感がない。

私が化学会社に勤めていたころ、通勤に自家用車を使う人もいた。
そういう人は会社に車種とナンバーを登録しなければならなかった。
なぜなら、会社の敷地内の駐車場を借り受けることになるからだった。
私は敷地内の社員寮に入っていたが、自家用車を所有していたので、会社内の空き地に停めさせてもらっていた。
そして例外なく、私も会社に車種とナンバーを届け出ていた。
すると一覧になって車種と所有者(社員)が掲示板に貼りだされるのだ。
そこに見慣れない車の名前があった。
「ヘスチバ」
外車だろうか?
私も車好きで、国産車ならたいてい知っている。
しかし「ヘスチバ」という、一風変わった名前の車は知らなかった。
所有者をみると、総務の女の子だった。
豊川奈津美という私より三つほど若い子で、字のきれいな子だった。
でもあの子の車は確か、フォードの「フェスティバ」…
「フェスティバ?」
私は、こみ上げる笑いを禁じ得なかった。
この一覧を作ったのは、総務のかなり年配の一ノ瀬さんだったはずだ。
もう定年を過ぎて、嘱託で雑務を請け負っていた。
そういえば、小さな液晶画面のワードプロセッサーで一ノ瀬さんがちまちま作った作品がこの駐車車両一覧だったのだ。
確かに、五十音入力でキーを叩いてつくれば「ヘスチバ」になるかもしれない。
ローマ字入力ならこんなことはならないだろうに。

「ヘスチバ」なる、なんだかソ連製の車のような、いかついものを想像してしまった。
中から、厚いコートと毛皮の帽子をかぶった、豊川さんが「ハラショー」って出てきたりして。
私はおもわず「ズドラストビチェ」と応えていた。
想像がとてつもなく広がった。


化学では「ビュレット」というガラス器具を使うことがある。
細長いガラス管の先に活栓(すりあわせのコック)がついたもので、本体ガラス管にはミリリットル目盛りが打ってある。
定量分析の父、モール(Mohr)が考案した、滴定(てきてい)という容量分析で使う器具だ。
※カール・フリードリヒ・モール(1806~1879)、無機化学の最初の事典を編んだレオポルト・グメリンの弟子。

これに似た言葉で「ビウレット」というものがある。
有機化学で出てくるのだが、私は「ビウレット反応」と「ビュレット」が表記の違いだろうと思ったまま、しばらく過ごしていた時期があった。
私は当時「ビウレット反応」に興味もなかった駆け出し者だったし、それで試験に差し支えるというほど大事な項目でもなかったからだ。
あとになって確かめると「ビウレット」とは「ウレット」つまり「尿素」が二つつながった「ビス」の「ビ」のことで「二つのウレット」という意味だったのだ。
当たり前だが、綴りも全く異なっていた。