ムラサキイガイ(ムール貝の仲間)が港湾や船舶に強固に付着してしまい、これをはがし取ることがとても困難だということは関係者なら良くご存知のことかもしれない。
海水浴でも浜辺のコンクリートブロックやテトラに集団でこの貝が付着しているのが観察されるし、足を切ったりすることがあるので嫌われている。
彼らの殻は刃物のように鋭いからである。

磯金(いそがね:かぎ爪またはマイナスドライバーのような道具)でこの集団をはがし取ることができるものの、かなり強固に固着していて、被接着物のほうも損壊するくらいだ。
これが船底や舵に固着するとやっかいである。
こういった接着生物がつかないような塗料もあるそうだが、重金属を含む毒性の強いものは海洋汚染につながるので敬遠されている。
アメリカ海軍でもこれらの海洋固着生物に悩まされていて、いまだに解決策がなく、兵器の開発よりも深刻な問題になっているそうだ。
※固着生物としてムラサキイガイのほかにフジツボ類、カキの仲間などがある。

ムラサキイガイが世界の港に普通に見られるようになったのは、最近である。
これは船を利用した物流が盛んになり、なかでも石油の運搬に使うタンカーの行き来に関係するらしい。
つまり、タンカーはほぼ油槽という空間でできた船であり、荷を下ろして空になると極めて不安定でそのまま航行すると転覆の恐れが大きい。
したがって、重しの海水(バラスト水)を現地の港で注入して船を安定化させて帰っていくことになる。
このバラスト水は帰った先の港で捨てられるが、このときに海水だけでなく、ムラサキイガイの稚貝なども含まれている。
海水積み込みの際にストレーナ(濾過器)を通すなどの努力をする船もあるが、まったくなにもしない船もあり、罰則もないから次第に、ムラサキイガイは世界の港に旅立っていったのである。
貝の繁殖力はすさまじく、ことにムラサキイガイは天敵らしいものがいないので、この世の春とばかりに繁茂したわけだ。
いまや、日本でもムラサキイガイを見ない海岸はない。
※海水温が29℃以上になると死滅するらしいので、亜熱帯~温帯の港が北半球の南限(南半球なら北限)といわれている。

そんなムラサキイガイを熱く研究しているひとたちがいる。
もちろん、ムラサキイガイの被害を食い止めたいという研究から発展して、「じゃあ、あのしつこい固着の源は何だ?」という疑問に突き当り、そこを極めていくと、なんともすごい接着剤の開発につながろうとしているのである。
ムラサキイガイが分泌する粘着物質(いや接着物質と言った方がいい)は、タンパク質だった。
そりゃ、生物の分泌する高分子だから、タンパク質であろうことは想像に難くない。
でもタンパク質があんなに強い接着力を示すことは普通、考えられない。
我々の知るタンパク質由来の接着剤といえば、ニカワ(膠)である。
あんなものお湯に浸けたらすぐに溶けちまう。
ところが、ムラサキイガイの接着タンパクはなんと、テフロン樹脂やポリプロピレン樹脂というような難接着素材でもお構いなく強力に接着でき、それも海水中という悪条件で、接着時間は数分の「瞬間接着剤」的な素早さで決着がつくらしい。
人智を集めてもこんな接着剤は、いまだ見つかっていません。

人の考えたテフロン樹脂を接着する接着剤なんて、フラックスを使用して表面状態を改変してやっと接着剤の分子足場ができて、くっつけられたというようなめんどくさいものばかりです。
なのに、ムラサキイガイは太古の昔からこの接着剤を使っていき伸びてきたのですよ。

「イガイ接着タンパク質」という聞きなれない物質がこのテーマです。
1981年にカリフォルニア大(アメリカ)のJ.H.Waiteらがヨーロッパイガイの固着物を分析し、それはL-dopaとhydoroxyprolineの含有率の高い塩基性ポリフェノールタンパク質だとつきとめた。
L-dopaとは「カテコール(ο-ジヒドロキシベンゼン)」骨格を有するアミンで「カテコールアミン」の一種です。
神経伝達物質であり、ドーパミン、アドレナリン、ノルアドレナリンの前駆体として知られますが、「イガイ接着タンパク質」ではポリフェノールのモノマーとして使われています。
ポリフェノール樹脂は人工のものならベークライト、ノボラック樹脂などの熱硬化性樹脂として大変有名であり、古典的な高分子化合物です。
天然では、木材にみられるリグニン高分子がフェノール骨格で三次元化し木材の強度を出しています。

hydoroxyprolineはアミノ酸ですがこれも水酸基を持つ骨格ゆえ、水酸基を利用した結合ができるわけです。
「イガイ接着タンパク質」のアミノ酸配列には強い繰り返し単位の存在が認められ、ほかにはない独特のものだということです。
生物由来の接着物質にフィブロネクチンがあるが、あれは特定のタンパク質に接着するタイプで、なんにでも強固に接着する「イガイ接着タンパク質」と同じ議論はできません。
もちろんフィブロネクチンがなんらかのヒントを与えてくれるかもしれませんが。

「イガイ接着タンパク質」の接着には、先のポリフェノールタンパク質(10種類以上あるらしい)だけでなく、ほかの化学物質も関与して複雑な接着現象を導き出しているようにも見えるそうで、まだ結論が出ていない状態です。

「しくみはよくわからないけれど、利用ができる」というので生化学、細胞培養技術(ティッシュ技術)の分野ではすでに「イガイ接着タンパク質」が細胞接着物質として利用されているようです。

また遺伝子組み換えによって、このタンパク質を人工的に合成させるなどの研究も盛んに行われ、反対に、この固着を解除する方法も研究されています。
これらの成果は、きっと船舶のメンテにも大きく寄与するでしょう。
楽しみです。