電磁気学として確立させた物理学者はジェームズ・クラーク・マクスウェルとして異論はないが、人類が電磁気現象を科学の対象とした最初の人と言えば、どうやらウィリアム・ギルバートにまでさかのぼることになりそうだ。
西暦1600年にギルバートはコハクに摩擦を与えると、物を引きつけるという現象、今でいう静電気現象に着目し、摩擦で物をひきつけたり、退けたりするものを電気性物質、何の変化も起こさないものを非電気性物質と分類したのだった。
このとき、ギルバートはラテン語の"electricus"という語を「摩擦で物をひきつける」という意味、つまり、今で言えば「静電気」の意味で使っていたらしい。
電気現象に"electricus"を使ったのは、何もギルバートが最初ではない。すでに13世紀の文献にも見える。
実は「電気(electricity)」をという語を最初に使ったのはギルバートと同郷、イングランドの作家、トーマス・ブラウンであり、ギルバートの偉業に影響されて数十年後に、ブラウンは自著にその語を使うのである。
さらに調べると、ギルバートが摩擦電気の研究で使ったコハクに電気の語源があった。
コハクは松脂など針葉樹の樹脂が化石化したものだが、それ自体、立派な絶縁体である。
これに摩擦を加えることで静電気を起こ(帯電)させることができたわけだ。
コハクのギリシャ語のつづりは"elektron"であり、ギルバートはその摩擦電気による力を"electric force"と呼んだとされている。
なんと、電気の語源は「コハクの力」だったわけだ。
※プリニウスの『博物学』参照。自然金は自然銀との合金で産出することが多いが、これをelectrumと言うのは、外観がコハクに似るからだと言われている。
ギルバートは静電気を目に見える形にするために「検電器」を考案する。
箔検電器が発明されるよりもずっと昔に、ギルバートは"versorium"なる回転する指針を持った検電器を発明した。
電気を見える化した、最初の男はウィリアム・ギルバートだった。
ゆえに彼を電磁気学の父と呼ぶこともある。
このころの偉人にありがちだが、ギルバートも多才な人物で、もとは医師だった。
それも英国王室の侍医というからたいした医者だったのだ。
1569年にケンブリッジ大学で医学博士の学位を取得している。
この医者は、物の真理を探究したいという衝動が強く、医者としての仕事のかたわら、地球物理、つまり地磁気についての研究に懸命になってしまう。
それほど磁石という不思議な物体に夢中になったらしい。
彼はロバート・ノーマンという航海士で、方位磁石の使い手と知己であった。
ノーマンの影響を強く受け、あらゆる実験や観察の結果から地球自体が大きな磁石であるという結論に達し、その考えはおおむね、今も正しいとされている。
たとえば地球の中心は鉄でできていて、それがために地球自体が磁石なのだという推論などである。
磁石によって鉄くぎが磁化すること、その磁化された鉄くぎを灼熱すると、磁力は失われることなどもギルバートが発見している。
のちにキュリー温度という物理現象であることがわかるまで数世紀が必要だったが、ギルバートの精力的な磁石の研究によって磁気現象の足掛かりは作られていた。
今では小学校で習うことだが、磁石にはN極とS極があり、その磁石を小さく割っても、そのそれぞれに新たにN極とS極が現れ、小さな磁石が無限にできることについてギルバートがその著書で明らかにしている。
ギルバートは死ぬまで、電気と磁気は別個の現象であり、関連はないものだと信じていた。
人類が、電気と磁気は表裏一体のものだと気づくのには、約250年後のハンス・クリスチャン・エルステッドとジェームズ・クラーク・マクスウェルの出現を待たねばならなかった。
ギルバートの研究から半世紀ほど後、ドイツのオットー・フォン・ゲーリケが実験で放電を起こすこと、つまり雷現象を示すことに成功した。
彼はマグデブルグの市長を務めるなど、政治家でもあり、財力もあった科学者だった。
マグデブルグの鉄球実験によって、真空と大気圧の大きさがどれほどのものかを市民に公開でやってみせたことで有名になった。
ゲーリケが晩年にいそしんだのが電気の研究であり、摩擦電気だった。
平賀源内が所持していた「エレキテル」もゲーリケの摩擦発電機も原理は同じである。
ゲーリケはこの発電機で電気を溜め、放電現象を目に見えるようにしたのである。
イギリスの染物屋だったスティーブン・グレイは、日曜科学者で、ギルバートの静電気の分類を精査し、導体と非導体、つまり電気を通すか、通さないかで分類し直した。
金持ちの友人に恵まれ、グレイはさまざまな興味ある事に手を出し、詳細な実験を重ねていった。
電気はもとより、天文学にも及び、自らレンズを研磨して望遠鏡を自作して天体観測をおこなった。
この成果が当時のグリニッジ天文台長だったフラムスティードの目にとまり、フラムスティードの助手を務めるまでになり、現存するフラムスティード星図の完成に大きく貢献したという。
アイザック・ニュートンと同時代を生きたグレイは、王立協会派閥紛争にも巻き込まれ、ニュートンと対立していたフラムスティードが閑職に追いやられると、グレイも職を失った。
グレイはその後もいろんな天文学者の助手をつとめるが、ほぼ無給で仕事をさせられ、貧窮していった。
そんな中でも摩擦電気の研究は続けており、電気の伝導、摩擦電気が除電される(導体を通じて逃げる)ことの発見に大きく貢献している。
箔検電器を考案したのはスティーブン・グレイ、そのひとだった。
ベンジャミン・フランクリンが凧の実験で雷が電気であることを実証するまえに、グレイはそのことに気づいていたという。
グレイの「フライングボーイ」という実験は、帯電させた絹の布の上に少年を立たせて少年を帯電させ、彼の手指に軽いものをくっつけるというもので、好評だったらしい。
この「フライングボーイ」の実験はフランクリンの凧の実験よりも前に行われている。
グレイは不遇のうちに体を壊して死亡し、共同墓地に葬られたが、彼の実験を引き続いて行ったのはフランス系イギリス人の友人、ジョン・デザグリエだった。
グレイもそうだが、デザグリエも物には導体と不導体の二種類があるという分類に固執しており、これを見て追試したフランス人化学者のシャルル・フランソワ・デュ・フェも「電気には二種類あるのではないか」と推論した。
しかし、フランクリンは「電気は一種類だ。ただ二種類の状態があるのだ」と異議を述べている。
後に、フランクリンと仲間たちが「電気には正と負の二種類の状態があるのだ」と結論付けたのだった。
18世紀半ばから、電磁気学が長足の進歩を遂げる。
イギリスのジョセフ・プリーストリーが中空の金属容器を帯電させる実験において、内部空気には電気の力が及ばないことから、電気の力(静電気の力)は距離の二乗に反比例する、いわゆる天体の重力のように「逆二乗の法則」に従うのではないかと推論する。
そののち、ロビソンやキャベンディッシュの実験から静電気力が「逆二乗の法則」に従うことを裏付けられた。
これらは今では「クーロンの法則」と呼ばれるが、クーロンが発見するよりも、ロビソンやキャベンディッシュが先にこの結論に達していたのに、その名を残せなかったのは、彼らがこの重大な結果を発表せずにしまい込んでいたからに過ぎない。
1785年、フランスの技師、シャルル・ド・クーロンがねじり秤を使って、詳細に摩擦電気による力の働きを調べ、論文にしたためて発表した。
この原理はねじり秤のねじれ角が、外力の大きさに比例するという性質を使っている。
しかして、結論に達したのはキャベンディッシュらより遅いにもかかわらず、公開が早かったためにクーロンの業績として「静電気力の逆二乗の法則」が「クーロンの法則」と呼ばれるようになった。
・引き合う力は電荷の積に比例し、それぞれの電荷の距離の二乗に反比例する
これがクーロンの法則であり、「電荷」という「粒子性」をほのめかす言葉が使われている。
クーロンの法則は、後のマクスウェルの方程式からも導かれる。
そこから一世紀を経て、マイケル・ファラデーの電気に関する研究を精査するかたわら、マクスウェルは電気と磁気の壮大な数学的融合を試み、見事に完成するのだった。
そして光さえも電磁波の一形態であるとし、統一的に扱ったのである。
西暦1600年にギルバートはコハクに摩擦を与えると、物を引きつけるという現象、今でいう静電気現象に着目し、摩擦で物をひきつけたり、退けたりするものを電気性物質、何の変化も起こさないものを非電気性物質と分類したのだった。
このとき、ギルバートはラテン語の"electricus"という語を「摩擦で物をひきつける」という意味、つまり、今で言えば「静電気」の意味で使っていたらしい。
電気現象に"electricus"を使ったのは、何もギルバートが最初ではない。すでに13世紀の文献にも見える。
実は「電気(electricity)」をという語を最初に使ったのはギルバートと同郷、イングランドの作家、トーマス・ブラウンであり、ギルバートの偉業に影響されて数十年後に、ブラウンは自著にその語を使うのである。
さらに調べると、ギルバートが摩擦電気の研究で使ったコハクに電気の語源があった。
コハクは松脂など針葉樹の樹脂が化石化したものだが、それ自体、立派な絶縁体である。
これに摩擦を加えることで静電気を起こ(帯電)させることができたわけだ。
コハクのギリシャ語のつづりは"elektron"であり、ギルバートはその摩擦電気による力を"electric force"と呼んだとされている。
なんと、電気の語源は「コハクの力」だったわけだ。
※プリニウスの『博物学』参照。自然金は自然銀との合金で産出することが多いが、これをelectrumと言うのは、外観がコハクに似るからだと言われている。
ギルバートは静電気を目に見える形にするために「検電器」を考案する。
箔検電器が発明されるよりもずっと昔に、ギルバートは"versorium"なる回転する指針を持った検電器を発明した。
電気を見える化した、最初の男はウィリアム・ギルバートだった。
ゆえに彼を電磁気学の父と呼ぶこともある。
このころの偉人にありがちだが、ギルバートも多才な人物で、もとは医師だった。
それも英国王室の侍医というからたいした医者だったのだ。
1569年にケンブリッジ大学で医学博士の学位を取得している。
この医者は、物の真理を探究したいという衝動が強く、医者としての仕事のかたわら、地球物理、つまり地磁気についての研究に懸命になってしまう。
それほど磁石という不思議な物体に夢中になったらしい。
彼はロバート・ノーマンという航海士で、方位磁石の使い手と知己であった。
ノーマンの影響を強く受け、あらゆる実験や観察の結果から地球自体が大きな磁石であるという結論に達し、その考えはおおむね、今も正しいとされている。
たとえば地球の中心は鉄でできていて、それがために地球自体が磁石なのだという推論などである。
磁石によって鉄くぎが磁化すること、その磁化された鉄くぎを灼熱すると、磁力は失われることなどもギルバートが発見している。
のちにキュリー温度という物理現象であることがわかるまで数世紀が必要だったが、ギルバートの精力的な磁石の研究によって磁気現象の足掛かりは作られていた。
今では小学校で習うことだが、磁石にはN極とS極があり、その磁石を小さく割っても、そのそれぞれに新たにN極とS極が現れ、小さな磁石が無限にできることについてギルバートがその著書で明らかにしている。
ギルバートは死ぬまで、電気と磁気は別個の現象であり、関連はないものだと信じていた。
人類が、電気と磁気は表裏一体のものだと気づくのには、約250年後のハンス・クリスチャン・エルステッドとジェームズ・クラーク・マクスウェルの出現を待たねばならなかった。
ギルバートの研究から半世紀ほど後、ドイツのオットー・フォン・ゲーリケが実験で放電を起こすこと、つまり雷現象を示すことに成功した。
彼はマグデブルグの市長を務めるなど、政治家でもあり、財力もあった科学者だった。
マグデブルグの鉄球実験によって、真空と大気圧の大きさがどれほどのものかを市民に公開でやってみせたことで有名になった。
ゲーリケが晩年にいそしんだのが電気の研究であり、摩擦電気だった。
平賀源内が所持していた「エレキテル」もゲーリケの摩擦発電機も原理は同じである。
ゲーリケはこの発電機で電気を溜め、放電現象を目に見えるようにしたのである。
イギリスの染物屋だったスティーブン・グレイは、日曜科学者で、ギルバートの静電気の分類を精査し、導体と非導体、つまり電気を通すか、通さないかで分類し直した。
金持ちの友人に恵まれ、グレイはさまざまな興味ある事に手を出し、詳細な実験を重ねていった。
電気はもとより、天文学にも及び、自らレンズを研磨して望遠鏡を自作して天体観測をおこなった。
この成果が当時のグリニッジ天文台長だったフラムスティードの目にとまり、フラムスティードの助手を務めるまでになり、現存するフラムスティード星図の完成に大きく貢献したという。
アイザック・ニュートンと同時代を生きたグレイは、王立協会派閥紛争にも巻き込まれ、ニュートンと対立していたフラムスティードが閑職に追いやられると、グレイも職を失った。
グレイはその後もいろんな天文学者の助手をつとめるが、ほぼ無給で仕事をさせられ、貧窮していった。
そんな中でも摩擦電気の研究は続けており、電気の伝導、摩擦電気が除電される(導体を通じて逃げる)ことの発見に大きく貢献している。
箔検電器を考案したのはスティーブン・グレイ、そのひとだった。
ベンジャミン・フランクリンが凧の実験で雷が電気であることを実証するまえに、グレイはそのことに気づいていたという。
グレイの「フライングボーイ」という実験は、帯電させた絹の布の上に少年を立たせて少年を帯電させ、彼の手指に軽いものをくっつけるというもので、好評だったらしい。
この「フライングボーイ」の実験はフランクリンの凧の実験よりも前に行われている。
グレイは不遇のうちに体を壊して死亡し、共同墓地に葬られたが、彼の実験を引き続いて行ったのはフランス系イギリス人の友人、ジョン・デザグリエだった。
グレイもそうだが、デザグリエも物には導体と不導体の二種類があるという分類に固執しており、これを見て追試したフランス人化学者のシャルル・フランソワ・デュ・フェも「電気には二種類あるのではないか」と推論した。
しかし、フランクリンは「電気は一種類だ。ただ二種類の状態があるのだ」と異議を述べている。
後に、フランクリンと仲間たちが「電気には正と負の二種類の状態があるのだ」と結論付けたのだった。
18世紀半ばから、電磁気学が長足の進歩を遂げる。
イギリスのジョセフ・プリーストリーが中空の金属容器を帯電させる実験において、内部空気には電気の力が及ばないことから、電気の力(静電気の力)は距離の二乗に反比例する、いわゆる天体の重力のように「逆二乗の法則」に従うのではないかと推論する。
そののち、ロビソンやキャベンディッシュの実験から静電気力が「逆二乗の法則」に従うことを裏付けられた。
これらは今では「クーロンの法則」と呼ばれるが、クーロンが発見するよりも、ロビソンやキャベンディッシュが先にこの結論に達していたのに、その名を残せなかったのは、彼らがこの重大な結果を発表せずにしまい込んでいたからに過ぎない。
1785年、フランスの技師、シャルル・ド・クーロンがねじり秤を使って、詳細に摩擦電気による力の働きを調べ、論文にしたためて発表した。
この原理はねじり秤のねじれ角が、外力の大きさに比例するという性質を使っている。
しかして、結論に達したのはキャベンディッシュらより遅いにもかかわらず、公開が早かったためにクーロンの業績として「静電気力の逆二乗の法則」が「クーロンの法則」と呼ばれるようになった。
・引き合う力は電荷の積に比例し、それぞれの電荷の距離の二乗に反比例する
これがクーロンの法則であり、「電荷」という「粒子性」をほのめかす言葉が使われている。
クーロンの法則は、後のマクスウェルの方程式からも導かれる。
そこから一世紀を経て、マイケル・ファラデーの電気に関する研究を精査するかたわら、マクスウェルは電気と磁気の壮大な数学的融合を試み、見事に完成するのだった。
そして光さえも電磁波の一形態であるとし、統一的に扱ったのである。