今回の西日本を広範囲に襲った豪雨は、まさに想定外の被害を被らせた。
避難指示、勧告などと簡単に言うが、果たして非難しえただろうか?
避難場所さえ水没しているのである。
もはや、人智を越えた災害だ。
防災や減災などと、人が懸命になっている状況を、あざ笑うかの如く自然の驚異を見せつけられた。

土壌が脆弱だった広島県は、四年前に線状降水帯による災害を経験している。
にもかかわらず、さらにひどい結果を招いてしまった。
「教訓を生かせなかった」などと片付けてはいけない。
「教訓など生かせなかった」のである。

土壌の強弱、河川の蛇行、異常気象への備え…こんなものは神の領域である。
思考停止にならざるをえない。

もし災害のない日本列島に改造するというのなら、自然破壊もやむなしとして、日本列島をコンクリートで埋め尽くさねばならないだろう。
荒唐無稽としか言いようがない。

したがって、地球規模で災害が甚大化する今日(こんにち)、我々はあらたなフェーズに向かって立ち上がらねばならない。

その昔、江戸っ子は「宵越しの金を持たない」という、ミニマリストの精神で「いなせ」に生きてきたという。
諦観が育てた美学だと思う。

火事と喧嘩は江戸の華とばかりに、火災の多い江戸の街だった。
延焼を防ぐために、被害が出ていない家も、町火消したちの手で壊された。
だれも文句は言わない。
江戸っ子には公共性があったのかもしれない。
すると、いきおい「物を持たない生活」を強いられるのだ。
稼ぎは飲み食い、遊興に使い果たし、またそのために働く。
家を失っても、また建ててもらえる。
助け合いの精神も、今以上に浸透していたそうだ。
だから「物を持たなく」ても、やっていけるのだった。
お金持ちは蓄財するのではなく、公共に進んで金を出す。
隅田川の花火、町火消しの運営、三社祭…みんなパトロンがいた。
さらに、江戸は究極のリサイクルシステムが整っていた。
下肥も売れる。
灰も売れる。
捨てるものはほとんどない。

来るべき災害に立ち向かう、柔軟な江戸っ子気質が、もしかしたら、我々に示唆を与えてくれるかもしれない。
物で備えるだけでは足りないのだ。
折れない心を育む社会が必要なのだ。

地球温暖化で自然災害は、もはやハリウッド映画級に強大になりつつある。
生き延びるのに必要なものは「運」だけになってしまった。