1939年、レオ・シラードはフランクリン・ルーズベルト大統領に原子爆弾の開発を促す親書を手渡した。
ユダヤ人の物理学者シラードは、ナチスも開発を進めている原子爆弾に連合国側がいち早く完成させて先手を打たねばという焦燥に駆られて、当時核物理学の世界的権威だったアルバート・アインシュタインの署名入りの親書を手渡したのだった。
すでに、ドイツの科学者オットー・ハーンが核分裂反応の実験を成功させていたのである。
この親書こそが、のちにマンハッタン計画とされる原子爆弾開発計画のきっかけとなった。
アインシュタインはこの親書への署名がヒロシマ・ナガサキの悲劇につながったとして、生涯、後悔し、核廃絶運動の中心人物として活動することになった。

当時、核物理学の世界では「核連鎖反応」あるいは「核分裂反応」についての理論は確立されていて、濃度の高い不安定核種があれば容易に爆発的な核分裂連鎖反応を起こすことができる時期に来ていた。

ルーズベルト大統領はこの親書を重く見、さっそく国立標準局(現国立標準技術研究所)のリーマン・ブリッグズ長官に相談した。
ブリッグズは事の次第を鑑みて、大統領の許可を得、秘密裏に「ブリッグズ諮問委員会(のちにS-1ウラン委員会)」を立ち上げたのだった。
シラードと、「水爆の父」と後に呼ばれることになる物理学者エドワード・テラー、ノーベル物理学賞受賞者のユージン・ウィグナーがブリッグズの呼びかけで会合した。
ただ、このころルーズベルト大統領は、まだ原子爆弾について半信半疑だったようで、あまりブリッグズらの性急な行動に興味を示さなかったようだ。
ドイツのオットー・ハーンの核分裂実験成功と同じ年の6月には、イギリスのバーミンガム大学の研究機関がウラン235の濃縮に成功しており、バーミンガム大のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスが爆弾に必要なウラン235の必要量を理論的に算出し、数キログラムで破壊的な爆発力を得ることができるとし、原子爆弾の具体的な仕組みも考案した。
この情報は直ちにオクスフォード大に送られ、イギリス軍の知るところなり、翌年1940年5月には科学者を募ってMAUD委員会が結成された。
一方アメリカでは、そのころまだ原子爆弾の草案すらできておらず、イギリスに先を越された状態だった。
イギリスのMAUDは日本との交戦の危機にあった1941年10月に、アメリカ政府に原子爆弾の青写真を知らせたという。
これを知ったルーズベルト大統領とウォレス副大統領は色めき立ち、原子爆弾製作に意欲を示した。
アメリカ政府は、ただちに米陸軍に原子爆弾開発プロジェクトを立ちあげさせ、イギリスの協力を得るべくチャーチル首相に申し入れた。
同プロジェクトはその本部があったマンハッタン工区の名を取って「マンハッタン計画」と呼ばれるようになった。
マンハッタン計画の拠点は米全土に及び、同時に短期間で目的達成をさせるために管理計画が綿密に起こされ、組織的に運営された。
拠点の中でもニューメキシコ州にあるロスアラモスの拠点はロバート・オッペンハイマー博士を中心とした、アメリカの核物理学の頭脳集団が活躍していた。
世界初の原子炉を完成させたエンリコ・フェルミをはじめ、計算機科学のフォン・ノイマン、後にノーベル賞を受賞するリチャード・ファインマンやイタリアからの亡命科学者エミリオ・セグレ、元素「シーボーギウム」に名を残すグレン・シーボーグ、「コンプトン散乱」のアーサー・コンプトンといった名だたる科学者も参加していた。

実は、コンピューターが実用に程遠い時代で、全米の優秀な高校生や大学生も計算に駆り出されたという。
戦後、発電用原子炉の設計施工で成功したウェスチングハウス社やゼネラルエレクトリック社もこの計画に参画していた。
1945年7月16日にニューメキシコ州アラモゴード基地で最初の原爆実験「トリニティ」が行われた。
その威力はすばらしいもので、立ち会った科学者や軍人の度肝を抜き、恐怖のあまり失禁してしまうほどのものだった。
その数日後に残りの二発の原子爆弾がヒロシマとナガサキに投下されたのである。
試作品に等しいこの二種類(ウラン型とプルトニウム型)の原子爆弾は、しかし、実験と違わず、大量の殺戮をおこない、大都市を一瞬にして壊滅させ、日本政府に無条件降伏を飲ませた。
彼らに原爆投下の躊躇がなかったのは、日本人や東洋人に対する蔑視が少なからずあったからだとも言われる。
ナチスにおいてさえ、モンゴロイドはユダヤ人と同じく劣等民族だと言われていたからだ(じゃあどうして我が国と同盟を結んだのか?利用した後に抹殺してしまうつもりだったのかもしれない)。

原子爆弾の原理は核分裂の連鎖反応による制御不能な莫大な熱と運動エネルギーの放出である。
そして大量の放射能がふりまかれる。
ウラン235という不安定同位体を高濃度に含む固体を臨界質量以下で二つ、間を置いて対峙させ、火薬の爆発で急速に接近させ臨界(核分裂が起こる距離)にすると大爆発を起こす(爆縮法)。
産出量の少ないウラン235の濃縮技術がかなり難しい以外は、いたって簡単な構造で原子爆弾ができる。
ヒロシマ型の場合、ウラン235を60kg使ったらしい。

一方、プルトニウム型は濃縮の難しいウラン235よりも入手しやすいプルトニウム239を用いる。
この放射性同位体は、実は原子炉の灰としてかなりの量が得られるのだった。
フェルミらの研究は原子炉の完成だったが発電目的よりも、マンハッタン計画の指図でプルトニウム239を得るために考案された。
ウラン235よりも少量で爆弾としては能力を発揮し、臨界量が5kg程度でいいそうだ。

広島原爆忌、長崎原爆忌を今年も迎え、犠牲者に哀悼の意を表したい。
二度とこのような悪魔の兵器を作らせず、持たせず、持ち込ませないように知恵を絞りたいものだ。